『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
「極楽寺坂超え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おわします」と2番に歌われる。
長谷観音(はせかんのん)
鎌倉の大仏さんに会ってから、江ノ電の長谷駅まで戻る間に、もう一つ鎌倉らしい長谷寺に立ち寄ることにした。鎌倉大仏からは徒歩8分である。
鎌倉の長谷寺は、
海光山慈照院長谷寺と号し、往古より「長谷観音」の名で親しまれ、開創は、奈良時代の天平8年(736)と伝えられ、聖武天皇の御代より勅願所と定められた、鎌倉有数の古刹である。
鎌倉時代に坂東三十三所観音霊場の第四番札所に定められ、諸方からの篤い帰依によりその法灯を今に伝えている。
なお観音山のすそのから中腹にかけて広がる境内は、四季を通じて花木が鮮やかな彩りを添え、また、遠く相模湾が望まれる眺望は鎌倉随一とも言われている。
本堂には、長谷観音として知られる十一面観音菩薩像が安置され、像高三丈三寸(9.18m)にも及ぶ日本最大級の木彫仏で、東国を代表する観音霊場の象徴でもある。
十一面観音菩薩像は、養老5年(721)、大和(奈良県)長谷寺の開山である徳道上人の本願に基づき、稽文會(けいもんえ)、稽首勲(けいしゅくん)と名乗る二人の仏師(不空羂索観音と地蔵菩薩の応化身)により楠の巨大な霊木から二体の観音像が三日三晩にして造願され、そのうちの一体が大和長谷寺の本尊となり、残る一体は有縁の地における衆生済度の誓願が込められ、開眼供養を修した行基菩薩によって海中へ奉じられた。
その後、天平8年(736)に至り、尊像は相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れ、その旨を受けた大和長谷寺の開基藤原房前(ふささき:藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となった。
錫杖を右手に執り、岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる十一面観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれている。
一切経が収められ「経堂」または「輪蔵(まわり堂)」とも呼ばれ、
『輪蔵は中国梁時代(5世紀)の学者傅大士の発明によるもので、蔵内には一切経が納めてあり、時計会展方向へ一回まわすと、一切経を一通り読んだと同じ功徳があると云われております。』
出典:【輪蔵(まわり堂)の説明板】より
境内の右奥には弁天窟という岩山をくりぬいた洞窟があり、この窟の壁面には弁財天とその眷属である十六童子が刻まれており、窟内を一巡りめぐりすることで、ご利益が授けられるという弁天窟である。
また長谷寺の境内には、高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)が短いながらも、暫らく住まいした住居があった。
その跡を示す石碑『高山樗牛ここに住む』と刻まれた石の碑が建っている。
駒札には、
『高山樗牛(林次郎・明治4年(1871)~明治35年(1902))は、明治を代表する評論家・思想家そして文学者であったが31歳にして早世、短いながらも最晩年を長谷寺境内にて過ごした由緒と、その文筆活動を顕彰するため、大仏次郎等、当時の文化人が発起人となり、昭和34年に建碑する。』とある。
出典:【高山樗牛住居碑の駒札】より
高山樗牛は、明治時代の思想化であり、東京大学の学生の時に書いた「滝口入道」が読売新聞の懸賞小説に入選し、現代に読み継がれている。
滝口入道は、平家物語に題材を得、滝口武者であった斉藤時頼と横笛との悲恋の話である。
樗牛は、日本の古典や欧米の思想にも造詣が深く、美文体を得意とし森鴎外とも論戦を交じわせたりもしたが、その思想があまりにも目まぐるしく変わったために、現在では、その名を知られることも少なく、若くして亡くなったこともあり、今は「滝口入道」の作者として、その名を記している。
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