神奈川に行ったのは、前述の2回だけだと思っていたのだが、鎌倉は神奈川にあり、箱根もまた神奈川だということを、すっかり忘れてしまっていた。
鎌倉には何年か前に行っている。
そして、
『鎌倉』(明治43年(1910)制定)
作詞:芳賀 矢一(はが やいち)、作曲:不詳、歌:文部省唱歌
鎌倉のご当地そんぐは少し古い、明治43年(1910)の文部省唱歌(尋常小学校唱歌)「鎌倉」という歌を取り上げた。
この歌は鎌倉の景色が歌われていて、鎌倉のその場所を訪ねてみようと思う。
鎌倉を訪ねたのは、帰りの新幹線が東京発21時で少し時間があったので、東京からJRで1時間ほどで行ける鎌倉に行ってみようとなり、プチ鎌倉巡りをすることにした。
4月のまだ桜の花の香が残る季節であった。
「七里ケ浜のいそ伝い/稲村ケ崎名将の/剣投ぜし古戦場」と1番に歌われる「七里ケ浜」と「稲村ケ崎」は江ノ電の極楽寺駅より先で、この鎌倉行では訪ねていない。
「極楽寺坂超え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おわします」と2番に歌われる。
2番の歌通りに訪ねると、藤沢のほうから江ノ電にのり、江の島を過ぎ「七里ガ浜」「稲村ケ崎」「極楽寺」「長谷」と鎌倉方面に乗ることになるのだが、鎌倉から乗ると丁度この逆に訪ねることになるのである。
今回は歌の逆、露座の大仏から訪ねることとする。
露座(ろざ)の大仏
露座とは、屋根のない所に安置することを言い、露天にある鎌倉の大仏を露座の大仏と言う。
高徳院の大仏さんまで、鎌倉駅前の1番または6番のバス乗り場からバスに乗り、鎌倉の町なかを10分ほど走り大仏前で降りると、高徳院である。
いよいよ鎌倉の大仏さんとご対面である。
関西人が大仏さんと聞いて思い浮かぶのが、奈良東大寺の大仏さんである。
歴史的には奈良の大仏さんが古く、天平15年(743)聖武天皇の発願により造営されたもの対して、鎌倉の大仏さんは、鎌倉三代執権の北条泰時の暦仁元年(1238)に発願され造営されている。
その大きさを比べると、
「総高(鎌倉:13.35m・奈良:18.03m)/仏身高(鎌倉:11.33m・奈良:14.98m)/面長(鎌倉:2.35m・奈良:2.54m)」であり、奈良の大仏さんの方が少し大きいようである。
なお奈良の大仏は官が造営したのに対し、鎌倉の大仏は民が財を持ち寄って造ったものである。
鎌倉大仏の由縁は、
『この大仏像は阿弥陀仏である。
源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。
零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。
初めは木像で暦仁元年(1238)に着工し6年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長4年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。
原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎エ門や丹治久友の名が伝えられる。
大仏殿は建武元年(1334)と応安2年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明応7年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。
大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。
大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。
昭和35・36年(1960・61)の修理では、前傾してる頭部を支える頸部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と仏体が離れる免震構造が施された。
この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。』
出典:【国宝 鎌倉大仏因由の説明板】より
また境内には、与謝野晶子が詠んだ、
「かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」
の句碑が建っている。
その大仏の胎内に入ることが出来、内はがらんどうで、そこにあった説明板によれば、
『鎌倉大仏は、鎌倉時代の中頃に造られました。今から750年も前のことです。
胎内に入ると、驚くべき高度の技術を駆使した鋳像技法が分かります。
像が大きいので、30回以上に分けて鋳造しているのですが、内壁の大きな格子模様は、そのために「鋳型」を多数並べ、重ねたことを示しています。
そして、分けて鋳造した個所を強固に鋳継ぐために、「鋳繰り(いからくり)」という他には見られない工夫を凝らした技法が使われています。
「鋳繰り」は、大きく分けて3種類あります。
1960年(昭和35年)文化財保存の見地から「昭和の大修理」が行われ、頭部を補強するために頸部に強化プラスチックERPが塗布され、地震に対する対策として、本体と台座の間にステンレス製の板が敷かれています。』
出典:【胎内の説明】より
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