そして、
『西銀座駅前』(昭和33年(1958)発売)
作詞:佐伯 孝夫、作曲:吉田 正、歌:フランク永井

この時乗った「はとバス東京観光短時間」ツアーは、東京駅丸の内側から発車をし、馬場先門の交差点から、遠くに皇居の隅櫓を見て、
01馬場先門mid
馬場先門交差点は、日比谷通と鍛治屋橋通とが交差する場所で、角に丸の内二重橋ビルがある。
江戸時代の寛永6年(1629)に作られ門の名は、門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が謁見し朝鮮馬場と呼ばれたことに由来する。
明治維新後は、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は近代的なビルが立ち並び、東京の中心街となり近代化を省庁する場所となった。
しかし日露戦争中の明治37年(1904)5月の祝賀会の提灯行列で惨事が起り、堀を埋め馬場先門も撤去されてしまった。

さらにバスは走り豊洲・晴海の標識を見て、東海道新幹線の通る線路をくぐって行く。
02新幹線mid

西銀座を過ぎ、
03西銀座mid
NISHIGINZA(ニシギンザ)は、西銀座デパートが運営するテナント型のショッピングセンターで、東京高速道路高架下の北数寄屋ビル内にあり、地上2階、地下2階の4フロアを有すもので、昭和33年(1958)に開業している。

東銀座の歌舞伎座を横に見て、
04歌舞伎座mid
歌舞伎座は東銀座にある、歌舞伎専用の劇場で、松竹のグループ会社である。
歌舞伎座は明治22年(1889)に東京の木挽街に開設され、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らにより明治期の黄金時代をもたらした。
明治44年(1911)に、帝国劇場に対抗し、純和風の建物に改修するが経営陣の対立から松竹が株を買い付け経営を握ることとなる。
大正10年(1921)漏電により焼失するが、大正14年(1925)に再開される。
昭和20年(1945)東京空襲で全焼するが、昭和26年(1951)に演劇興行を再開している。
以降、歌舞伎の越えんや映画俳優の特別公演、歌謡ショーなどが開催されてきたが、平成26年(2013)オフィスビルと併設された歌舞伎座が完成し、今に続いている。

新橋演舞場から築地4丁目の交差点を過ぎると、勝鬨橋が見えてくる。
05新橋演舞場mid 06築地4丁目mid
        新橋演舞場                 築地4丁目

築地場外市場をみて、
07場外市場mid
築地市場は、中央区築地の5~6丁目にかけて、昭和10年(1935)から平成30年(2018)まで使用された公設の卸売市場である。
現在は江東区豊洲に移転をし商売が営まれている。
築地市場は豊洲に移ったのだが、築地場外市場は築地に残ったままで、築地4~6丁目の間に400軒の店舗がひしめいており、一般客や観光客など多くの人で賑わっている。

勝鬨橋を渡らずに、レインボーブリッジへと向かう。
08勝鬨橋mid
勝鬨橋は隅田川の一番下流に架かる橋で、築地場外市場、築地本願寺、月島などが周辺にある。
勝どき橋の名は、明治38年(1905)日露戦争の旅順陥落を記念して築地と月島を結ぶ「勝鬨の渡し」が設けら、その跡に架けられたことでその名が付いた。

勝鬨の渡し跡の説明文には、
『明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。
対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三町目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。
とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。
渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。』
出典【勝鬨橋の渡し跡説明文】より

勝鬨橋は、昭和8年(1933)に着工し、昭和15年(1940)に完成している。
当時は隅田川は船の運航が多く、陸運よりも水運を優先させ、橋が跳ね上がる可動橋として造られた。
当初は、午前9時、午前12時、午後3時の3回、20分程度開いており、昭和22年(1947)からは都電が開通し、昭和43年(1968)まで橋の上を走っていた。
しかしだんだんと船運が衰退し、昭和45年11月29日を最後に開閉されることはなくなった。