そして、
『大利根月夜』(昭和14年(1939)発売)
作詞:藤田 まさと、作曲:長津 義司、歌:田端 義夫
そして、
『大利根無情』(昭和34年(1959)発売)
作詞:猪又 良、作曲:長津 義司、歌:三波 春夫

01ディズニーランドmid
千葉には東京ディズニーランド・シーに何回か行っている。
千葉に行ったというよりも、ディズニーランド・シーに行って帰ったという感覚が強く、千葉に行ったという思いはないのである。
この時も宿泊は東京泊まりである。

02利根川mid
まったくディズニーランド・シーとは関係のないご当地そんぐなのだが、千葉の北茨城との境目を流れる利根川にまつわりるご当地ソングとして、大利根に纏わる唄を二つとりあげる。
【大利根月夜】(田端義夫:昭和14年(1939))と、【大利根無情】(三波春夫:昭和34年(1959))の二つである。

いずれも平手造酒を歌ったもので、飯岡の助五郎と笹川の繁蔵との縄張り争いに絡む、大利根河原の出入をクライマックスに、平手造酒がやくざの用心棒となった姿を歌っている。
二つを較べてきると、

「あれを御覧と指差すかたに 利根の流れを流れ月・・・」と歌うと
「利根の 利根の川風よしきりの 声が冷たく身をせめる・・・」と歌う。

「愚痴じゃなけれど 世が世であれば・・・男平手ともてはやされて・・・」とつづくと
「義理の 義理の夜風にさらされて・・・こころみだれて 抜いたすすきを奥歯で噛んだ・・・」と歌い

そしていよいよ、天保水滸伝のクライマックス、大利根河原の出入となり、
「もとをただせば侍育ち 腕は自慢の 千葉仕込み 何が不足で大利根ぐらし 故郷じゃ 故郷じゃ妹が待つものを」と歌えば、
「瞼 瞼ぬらして大利根の 水に流した夢いくつ 息をころして 地獄まいりの冷酒のめば 鐘が 鐘が鳴る鳴る妙円寺」と締め括る。

同じ平手造酒を歌った唄なのだが、時代が変わり歌い手が変わると、こんなにも雰囲気が変わる。
利根の河原に飯岡一家と笹川一家の怒声が響き渡り、笹川の用心棒である平手造酒の最期が演出されるのが、千葉を流れる利根川の河原なのである。

03お玉ガ池mid 04右文尚武mid
『利根の川風袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)差す高瀬舟
人目関の戸叩くは川の、水に堰(せ)かるるくいな鳥
恋の八月大利根月夜、佐原ばやしの音も冴え渡り
葦の葉末に露おく頃は、飛ぶや蛍のそこかしこ
されば天保十二年、抜けば玉散る長脇差し
赤い血しぶきしとど(ひどく濡れるさまを云う)に浴びて、飯岡笹川両身内
名代なりける大喧嘩、伝え伝えし水滸伝』
と玉川勝太郎の浪曲「天保水滸伝」に歌われたのが、平手造酒である。
平手造酒は架空の人物なのだが、どうやらモデルが存在するらしい。
文化~天保の末に生きた剣客で、お玉ケ池の千葉道場(玄武館)に入門していたが、酒で身を持ち崩し破門にされ、笹川繁蔵の用心棒となるのである。
笹川繁蔵や飯岡助五郎は実在の人物で、その縄張り争いから利根の河原での出入りとなり、そこで平手造酒は斬られてしまうのである。
平手造酒は、その名を平田三亀(ひらた みき)と云い、生没年は不詳だが、天保水滸伝によると、利根の河原での出入にて斬られているので、天保15年(1844)の没となる。
30才とも35才とも云われ、その墓が千葉県香取郡松崎町の心光寺にあるという。
三波春夫の「大利根無情」の一節に、
『佐原囃子(さわらばやし)が聴えてくらァ、想い出すなァ、お玉ヶ池の千葉道場か。
平手造酒も、今じゃやくざの用心棒、人生裏街道の枯落葉か』
とある。
写真は、東京千代田区にある「お玉ヶ池千葉道場」があった処である。