そして、
『赤城の子守唄』(昭和9年(1934)発売)
作詞:佐藤 惣之助、作曲:竹岡 信幸、歌:東海林 太郎
そして、
『名月赤城山』(昭和14年(1939)発売)
作詞:矢島 龍児、作曲:菊池 博、歌:東海林 太郎
佐渡に行った帰りだったと思うのだが、佐渡の両津港から新潟港へと戻り、新潟からどんな経路をとったのかがはっきりしないのだが、信越本線の松井田駅で途中下車をしたのが、群馬県に行った2回目である。
この時は、松井田で列車普通のため途中下車をしたとあり、同じ日に軽井沢と松井田の駅の外で撮った写真が残っている。
群馬といえば「からっ風」と「かかあ天下」で知られるが、八木節にも歌われる国定忠治は外せない。
ご当地そんぐも忠治に関わる歌である。
国定忠治は江戸時代後期の侠客で、文化7年(1810)赤城山南麓の上野国佐位郡国定村(現在の伊勢崎市国定町)に生まれている。
17才で人を殺し、博徒の大前田英五郎の許に身を寄せ頭角を表してゆく。
天保5年(1834)英五郎と対立する島村伊三郎を殺したことで、関東取締出役に追われ、信州に逃げている。
その後も赤城山を根城にし、近隣の博徒と私闘を繰り返し、関東取締出役の追及も激しくなり、天保12年(1841)には、関東取締出役の目明しを務める三室の勘助を、子分の板割の浅太郎に殺させている。
関東取締出役の厳しい追及にもかかわらず忠治が逃げおおせたのは、天保8年(1837)の大飢饉の時に私財を投げ打って国定村の住民に施しをしたり、農業用水の灌漑をしたことなどで、農民の支持を得ていたからである。
しかし忠治も病には勝てず中風を患い、嘉永3年(1849)に捕縛され、大戸関所(上州街道の大戸宿の関所)の関所破りの罪で、磔の処刑になっている。享年41才であった。
江利チエミの歌う「八木節」に、
「アー 上州名代の 大親分は 度胸すぐれた 国定忠治 百姓泣かせの 悪代官を 取っておさえて 一泡ふかせ 今宵かぎりと 赤城を下る ここに哀れは 板割浅よ 叔父の形見の 勘太を背負い 坊やよいこだ ネンネンコロリと オーイサネ」がある。
忠治の籠った赤城山は、上毛三山(赤城・榛名・妙高)の一つとして知られ、黒檜山(くろびさん:1,828m)を主峰に、駒ケ岳、長七郎山(1,579m)、前浅間山(1,480m)、桑柄山(1,562m)、薬師岳などを連ねて再び黒檜山に至る楕円形の外輪山からなるカルデラ湖を含む複成火山である。
中央に火口原湖大沼、火口湖小沼があり、そのかたわらに地蔵岳(1,673m)がそびえている。
裾野は長く伸びて、東は足尾山地に、西は利根川をへだてて榛名・子持山にむかい、南は関東平野につらなる、広大な裾野を持つ。
国定忠治の赤城山での子分たちとの別れで、
「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の國定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ」
と、そして抜いた刀を月にかざし、
「加賀国小松の住人五郎義兼(よしかね)が鍛えた業物(わざもの)、万年溜まりの雪水に浄めて、俺にゃあ生涯、手前という強い味方があったのだ」
との有名な台詞が語られるのである。
コメント