そして、
『白虎隊』(昭和12年(1937)発売)
作詞:島田 磬也(きんや)、作曲:古賀 政男、歌:藤山 一郎
そして、
『白虎隊』(昭和27年(1952)発売)
作詞:野村 俊夫、作曲:古賀 政男、歌:霧島 昇
会津武士のあいだで守られてきた掟が「什の掟」で、
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはまりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
この「什の掟」が後の戊辰戦争における会津武士の戦いの原動力になるのである。
鶴ケ城はエレベーターはなかったのだが、コンクリートの城らしく階段は緩やかで五層の天守までは比較的楽に登ることが出来た。
天守からは会津若松の町が一望でき、白虎隊自刃の飯盛山もタクシーで10分ほどで行けるというので、ここから見えると探したのだが、どの方角にあるのか分からなかった。
天守に居た案内のお姉さんに飯盛山を訪ねると、アンテナのポールの方向の山の中腹が飯盛山の白虎隊の自刃の地だと教えてくれた。
そこは肉眼では遠すぎてはっきりと見ることは出来なかったのだが、何となくその雰囲気が感じられるような気が伝わてくるようであった。
会津に来たら白虎隊のことに触れないわけにはいけないのである。
鶴ケ城の天守から北に飯盛山が見える。
教えてもらったようにポールの先の山の中腹あたりが、白虎隊自刃の地だという。
戊辰戦争において会津藩は、会津城を死守するために、
「朱雀隊」18才から35才までの精鋭を集めた実践部隊。
「青龍隊」36才から49才までの国境を守る部隊。
「玄武隊」50才以上の予備部隊。
そして
「白虎隊」16才から17才の少年を集めた予備部隊で城中警護の任にあたる。
を編成したのである。
戦況が逼迫すると白虎隊にも出陣命令が出て、前線に投入されることになる。
会津の武士階級は、上士(士中)・中士(寄合)・下士(足軽)と分かれ、白虎隊も身分ごとに一番隊、二番隊とあった。
この中で飯盛山で自刃したのは、士中二番隊の少年たちであった。
戸ノ口原の戦(猪苗代湖西岸)に敗れた士中二番隊は、山間を退却し弁天洞門をくぐって飯盛山まで逃れきて、炎に包まれた鶴ケ城を見て、20名が自刃(1人は未遂)をしたのである。
その跡が天守からずっと向こうに見える飯盛山の中腹あたりなのである。
白虎隊は「白虎隊」という歌で知られるようになったのだが、「白虎隊」の歌は、作詞・島田磬也(きんや)、作曲・古賀政男のものが知られているのだが、自分には少し違和感を覚えたのであるのだが、今これを調べているうちに、もう一つ作詞・野村俊夫、作曲・古賀政男という違う「白虎隊」の歌があることがわかった。
その二つを比べてみると微妙にちがっているのである。
一、戦雲暗く風絶えて 古城にさゆる月の影 誰(た)が吹く笛ぞ音も悲し 今宵名残の白虎隊
(陽は落ちて)(月の影悲し) (か識らねども)
二、紅顔可憐の美少年 死をもて守るこの山河 滝沢口の決戦に 降らす白刃の白虎隊
(少年が) (保寒) (村の血の雨に)(濡らす)
とりで
「詩吟」南鶴ケ城を望めば砲煙あがる 痛哭涙を飲んで且つ彷徨す
宗社亡びぬ我が事終わる 十有九人屠腹して斃る
三、飯盛山の秋深く 松籟肌に寒けれど 忠列永久(とわ)に香を残す 花も会津の白虎隊
(山頂に)(秋吹く風は) (忠列今も香に残す)
( )内は、島田磬也作詞のもの
その歌詞をみると、野村俊夫氏が作詞した白虎隊の歌が、昔聞いた「白虎隊」の歌だったのである。
ちなみに「新聞からご当地ソングが聴こえてくる」の福島のご当地そんぐは、
『会津磐梯山』(福島県民謡)である。
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