そして、
『白虎隊』(昭和12年(1937)発売)
作詞:島田 磬也(きんや)、作曲:古賀 政男、歌:藤山 一郎
そして、
『白虎隊』(昭和27年(1952)発売)
作詞:野村 俊夫、作曲:古賀 政男、歌:霧島 昇
福島といえば会津、会津といえば鶴ケ城、鶴ケ城といえば白虎隊・・・
福島と聞いて最初に浮かぶのが『白虎隊』の歌である。
ところが、白虎隊の歌には曲は同じ古賀政男の作曲で、違う歌詞の二つの歌がある。
裏磐梯の檜原湖から南、烏帽子岳がそびえる大内宿から「6県10景東北大周遊四日間」のツアー最後の訪問地である会津鶴ケ城へと向かう。
大内宿から121号線を走り、45分で会津若松市の「鶴ケ城」に到着する。
会津若松は、福島県西部の会津盆地(会津平とも呼ばれ、喜多方や坂下がある)の中心で、江戸時代に会津藩の城下町として、また北に飯豊山地(いいでさんち)を越えて米沢(山形県)に、東に猪苗代湖を経て奥羽山脈を越え郡山(福島県)へ、西は越後山脈を越え新潟(新潟県)へとつながる交通の要衝としても栄えた。
東南には東北の名湯東山温泉があり、磐梯高原・猪苗代湖をひかえ、史跡と景勝の地であり、名産に会津塗が有名である。
徳川幕府に忠誠をつくした戊辰戦争で、一ケ月の籠城戦を繰り広げた末に開城した話は、会津若松を語る上では外せない話である。
戊辰戦争で要となった「鶴ケ城」は、至徳元年(1384)葦名7代の葦名直盛が東黒川館を建てたことに始まる。
その後、黒川城を建て城下町として栄えるが、天正17年(1589)伊達政宗が芦名氏を滅ぼし、黒川城に入る。
しかし天正18年(1590)政宗は、豊臣秀吉に服従し会津の黒川城を召し上げられ、代って蒲生氏郷が会津領主として黒川城に入り、文禄2年(1593)7層の天守閣を造り、黒川から若松に町名を改め、城も「鶴ケ城」と名付けられる。
慶長3年(1598)蒲生氏郷の子秀行がお家騒動を咎められ、宇都宮に移封され越後の上杉景勝が出羽3郡、佐渡3郡を加え120万石で会津に入るのだが、慶長6年(1601)徳川家康は関ケ原の戦いで西軍についた上杉景勝を米沢に移し、再び蒲生秀行が会津に入る。
寛永4年(1627)2代藩主蒲生忠郷に嗣子がなく没し、代わって伊予松山から加藤嘉明が会津に入るものの、寛永20年(1643)加藤明成は領内統治に失敗し、お家騒動も絡み会津40万石を幕府に召し上げられる。
代わって3代将軍家光の弟・保科正之が出羽最上から23万石で入城し、以後、明治維新まで会津松平家の居城となる。
慶応4年(1868)、戊辰戦争が起こり会津では鶴ケ城を中心に戦いが行われ、会津勢が籠城する鶴ケ城も砲撃を受け傷つき荒れ果てる。
1ケ月に及ぶ籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受け入れ9月22日に開城をする。
戊辰戦争後、天守閣を含む多くの建造物は取り壊されてしまうのである。
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