ご当地そんぐは、
『斉太郎節』(宮城県民謡)
宮城には4度行っている。それも松島には3回も訪れている。
一番最初に行ったのが、会社に入ってすぐの時、ゴールデンウイーク前に東京に出張することがあり、東京から仙台~山形の日本海に抜けて信州をまわり大阪へ帰るという旅行をした。
上野から東北本線の夜行列車(この時分は多くの夜行列車が走っていた)で仙台へ、朝に着き、仙石線で「松島海岸」へ。
この時は、湾内めぐりの遊覧船には乗らず、瑞巖寺も門前から参拝し、仙台に帰って青葉城址を遠くに眺めて「春の風の様に通り過ぎた仙台 おりふし耳に入る東北弁が 雪のない東北を感じさせる 五月の風が聴こえる 五月青葉の仙台」と慌ただしく仙台を後にしている。
2回目は、それから随分と年月が過ぎた夏であった。
仙台で仕事を終えて一泊し、次の日帰りの飛行機までの時間をどうしようかと、前日飲んだ、青葉区国分町のスナックしょうこで、塩釜から船に乗り松島観光するのが良いと教えられ、仙石線で本塩釜まで行き、そこから松島までの観光船に乗り松島湾の島々を眺め、五大堂、瑞巖寺を見て、松島海岸から仙台に出て仙台空港から伊丹空港の帰って来た。
松島までの観光船に乗った本塩釜は、
『現在の塩竃市の中央、一森山に鎮座する「奥州一之宮・鹽竈神社」別宮の祭神「塩土老翁神(しおつちおじのかみ)」は、昔々、この地に住む人々に海水を煮て塩を得る方法を伝えたと言われ、塩竈の地名は、これに由来するといわれています。
海水を煮る器、鉄釜を「神の釜」として貴び、この町で唯一の砂浜だったといわれる「甫出(ほで)の浜」(現在の御釜神社周辺)にそれらを集め、共同製塩の場所としたのではないかと推察されています。
そして、塩を得る釜が置かれていたという場所という意味で「塩竈」の名前が生まれたのだという説が広く語られています。
この地名の由来を受けて、大正一五年(一九二六)四月一四日、宮城電気鉄道(現在の仙石線)の西塩釜~本塩釜間開通の時、駅が町の中心部に開業することとなり、駅名を本塩と名付けて開業しました。』
出典:【本塩釜駅の駅名由来】より
3回目が「6県10景東北大周遊四日間」のツアーで訪ねるのだが・・・生憎の雨模様。
松島湾内一周遊覧コースの船は松島の陸を離れ、小雨に煙る松島湾へと向かう。
松島は、安芸の宮島、天橋立と共に日本三景の一つで、濃藍色の海に緑の松が茂った小島が点在し、かの芭蕉も「ああ松島や、松島や」とその景観を見て俳句を作ることが出来なかったという。
松島は牡鹿(おじか)半島に抱かれた仙台湾の中央部のさらに入組んだ松島湾の一帯をいい、東西15Km、南北12Kmの、島・丘・海が渾然となる景観である。
島数は大小260余、島々は白色がかった水成岩で、松の緑が海面に映えてさらなる風情を醸し出している。
松島の島々は、仙台市付近の青葉山・八木山の一端と同じ台地が、河川浸食で細かい谷が出来、のち沈降して海水に覆われた結果、峰だけが海上に突き出し岬となったり、海面に浮かび出て島々となったものである。
それが波の浸食により現在のような奇石が形づくられた。
松島は古くは「塩釜の浦」といい、伊勢物語には「わがみかど六十余国の中に塩竈という所に似たるところなかりけり」とみえ、慶長9年(1604)伊達政宗が五大堂・瑞巌寺・観瀾亭を建てたことで、一躍その名を有名にしたのである。
そんな訳で宮城のご当地そんぐというと「松島の(サーヨー)瑞巌寺ほどの 寺もないとエー(アレワエーエ エトソーリャ)大漁だエー」と歌われる「斉太郎節(さいたらぶし)」が思い浮かぶのである。
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