修学院から音羽川に沿って東に歩き、住宅地を抜け山道に入ろうとする所に「雲母橋」が架かっている。
ここが比叡山への登り口である。
比叡山頂には、雲母橋を渡り修学院離宮の東側の登山道から、水飲対陣跡を通り、八瀬から出るケーブルカーの比叡駅を経由して、比叡山四明岳山頂に至る、比叡山に登る最も短い登山道である。
雲母橋に立つ駒札には、
『雲母坂は、平安時代より比叡山と都を結ぶ主要路として賑わい、都からの勅使が通ったことから勅使坂とも呼ばれました。
また、法然、親鸞らの名僧をはじめ多くの人たちもこの坂を行き来しました。
比叡山の山法師が日吉神社の御輿を担いで都に強訴に押し掛けたのもこの道とされ、南北朝の戦乱では、この坂が戦場となり多くの将兵の血に染まりました。
雲母坂の名は、付近の花崗岩に含まれる雲母のきらきらした輝きからこう呼ばれたとも言われています。
用と府では、昭和47年9月の台風20号による音羽川の水害を契機に砂防ダムを整備し、平成4年度から砂防学習ゾーンとして環境整備しました。
そして雲母坂の上り口にこの橋を設置するにあたり、雲母坂の名前にちなんで「雲母橋」と名付けました。』
出典:【雲母坂と雲母橋の駒札】より
この登山道は、親鸞が治承5年(1181)9才の時に出家し、修学のために比叡山延暦寺に登り、建仁元年(1201)29才で下山した時に通った道であり、南北朝の時代の延元元年(1336)に、南朝の千草忠(ちぐさただあき)が足利直義の軍と対陣(水飲対陣跡)し、西坂本合戦で討ち死にした所でもある。
また延暦寺の千日回峰行が行われる道でもある。
雲母橋の手前で雲母坂ではなく、音羽川から離れ右に、曼殊院に向かう道をとると、目に入ったのが、源氏物語ゆかりの地に建つ説明板。
こんなところにも、源氏物語に関係する地があろうとは思いもよらなかったのだが、ここは宇治十帖に登場する比叡山の横川僧都に関わる場所であるらしい。
叡山電鉄の「修学院」の駅からは徒歩25分の所で、一乗寺竹ノ内の関西セミナーハウスの敷地内にある。
雲母坂の「源氏物語ゆかりの地」の説明版によると、
『平安京の北東(鬼門)に位置する比叡山(標高848m)は、延暦4年(785)に最澄(767~822)が山中に一宇の草堂を構えて比叡山寺(一乗止観院)を創建、さらに弘仁14年(823)には延暦寺として、後に「三塔十六谷・比叡山三千坊」などと称する大伽藍に発展した。
延暦寺からは円仁・円珍のほか、新仏教を開いた法然・親鸞・日蓮・栄西・道元らを輩出し、日本仏教の母山とも称される。
古来、都から比叡山への主要ルートの一つであった雲母坂は、都から勅使や修行僧が行き来し「勅使坂」「禅師坂」などとも呼ばれ、山州名跡志に「此の坂、雲を生ずるに似たり、よって雲母坂と云う」とある。
「源氏物語」では、浮舟が、薫・匂宮(におうのみや)との関係を清算するため宇治川に入水しようと彷徨(さまよ)い、気を失って倒れているところを横川僧都に助けられ出家する(「浮舟」「手習」)。
いっぽう薫は、行方不明になっていた浮舟を尋ねるために比叡山の横川僧都のもとを訪れ、小野にいる浮舟のもとへ案内を頼むが、僧都はすでに出家している浮舟に会わせることをためらい、薫の願いは果たせなかった(「夢浮橋」)。
横川僧都は恵心僧都源信(942~1017)がモデルとされている。』
出典:【源氏物語ゆかりの地 雲母坂の説明板】より
雲母橋(京都市左京区一乗寺竹ノ内町)
京都駅から、
▼「A1」乗り場から、5系統で『修学院道』下車(所要52分)、
「修学院道」から、東に徒歩22分
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