08庵跡標mid
倒木の山道に分け入って、さらに道なき道を歩いてゆくと、巨岩のもとに「方丈記庵跡探訪記念標」なる標が建っていた。
ここが鴨長明の庵があった所であり、今では考えられないような山奥に住んでいたのだと、日野の里からも随分と離れ、日々の生活をどうしていたのだろうかと思うのであるが、これは現在の尺度で図るので、長明の生きた時代は、ここで隠棲の暮らしが出来ることを喜んだのであろう。

09方丈石(1)mid 10方丈石(2)mid
たどり着いた所には「長明方丈石」の石碑が建っていたのだが碑文には、
『方丈石はこの下の巨岩と云われる。
ここは鴨長明が方一丈(三メートル強)の小庵を営み「方丈記」を著した場所と伝えられている。
長明の祖父は賀茂社の氏人で、父はその摂社河合社の禰宜であった。
父長継の次男として、仁平三年(1153)-一説に久寿二年(1155)-に生れた長明は19才で父に死別した。
彼は社司を志すかたわら琵琶を中原有安に学び、和歌を俊恵法師に学んだ。33才のとき「千載和歌集」に一首入選歌壇に認められ、47才のとき和歌所寄人となり、宮廷歌人として活躍「新古今和歌集」に十首入選した。
しかし、社司の継承に失意した彼は、元久元年(1204)出家し洛北大原に隠棲して4年を過ごし、建暦元年(1211)日野に移り(一時鎌倉にも行くが)草庵を結び「方丈記」を著した。
鎌倉時代の変革期に末流貴族の子弟として、自己か自己の生活を照破する文学を結実させた「方丈記」は、鎌倉文化発展の序曲(日本古典文学大系)と云われ、文学史上不可欠の意義を有している。
健保4年(1216)閏6月8日没した。』
                            出典:【方丈の庵跡】より

11山道mid
長明の方丈石から日野の里へと山を下りる。
こんな倒木がある道を日野の里へと下ってゆく。

12野外活動mid
途中、日野町野外活動施設がある。ここは登ってくる時にも通った所で、ここまでは人を見かけるのだが、ここを過ぎると人一人いない山道となるのである。

13公民館mid
日野の町を一望しながら日野の里まで下りてくると「更生山恵福寺」という寺があり、境内では地域の人が集まって花見の宴が催されていた。
日野自治会の建物がある四辻まで帰ってくる。
実は、六地蔵からバスでくると、この四つ角で右に曲がり「日野誕生院」へと向う。
ここを起点として、ぐるりと一周して、また元の所に戻ったということになるのである。

鴨長明方丈石(京都市伏見区日野船尾)
京都駅から、
▼JR奈良線で『六地蔵』下車(所要10~14分)、京阪バス御蔵山六地蔵線で『日野西川頬(ずら)』下車(所要9分)
「日野西川頬」から、徒歩20分