真如堂には5系統のバスに乗るのだが、バスは白川通の「錦林車庫前」か、ひとつ手前の「真如堂前」で降りることになるのだが・・・
「真如堂前」で降り、白川に架かる宮前橋の手前を北に入り、白川を少し遡り真如堂橋を渡ると登り坂となり、2分ほど歩くと真如堂東参道があり、この階段を上がると、真如堂の裏から入ることになる。
真如堂の表から入るには「錦林車庫前」で降りることになる。

01真如堂mid
真如堂は、鈴声山真正極楽寺といい、藤原時代の永観2年(984)の戒算上人が開いたもので、正歴5年(994)一条天皇が本堂を建て、勅願寺とした。
本堂は寛永年間(17世紀中ごろ)に再建されたもので真如堂といい、俗にこの寺の呼び名に用いられている。
寺域も広く、42,000㎡のなかに薬師堂・三重塔・地蔵堂など、たくさんの建物がある。
毎年11月5日の夜から15日の朝まで有名な「十夜の法会」が行われる。
出典:【最新旅行案内 京都「真如堂」】より
「十夜の法会」とは11月に行われる念仏絵で、仏を感じ「南無阿弥陀仏」の念仏を10日10夜にわたり唱える法要である。

02本堂mid
駒札によれば、
『正しくは真正極楽寺という天台宗の寺である。
平安中期の永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧・戒算上人が延暦寺の常行堂にあった阿弥陀如来像を東三条院藤原詮子(せんし:一条天皇の母、藤原道長の姉)の離宮に移し、安置したのが始まりとされる。
当初、この場所の東北に位置する元真如堂(換骨堂)の地にあったが、応仁の乱で荒廃した後、各地を転々とし、元禄6年(1693)に現在地への再建が開始された。
本堂(重要文化財)は江戸時代の享保2年(1717)の上棟で、京都市内の天台宗の寺院の本堂として最大規模を誇り、内部には、本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)が祀られている。
本尊は「うなずきの弥陀」とも呼ばれ、毎年11月15日にのみ開帳される。
寺宝として、仏師運慶の発願によって書写された法華経六巻(国宝)をはじめ、応仁の乱などを描いた室町時代の真如堂縁起(重要文化財)、毎年3月に公開される大涅槃図など、多数を蔵する。
秋には、東山を借景にした「涅槃の庭」や三重塔、梵鐘に色付いたもみじが映え、紅葉の名所としても有名である。』
                           出典:【真如堂の駒札】より

03本堂(2)mid
本尊の阿弥陀如来は、慈覚大師円仁が阿弥陀如来像をつくり、白毫(びゃくごう:如来像の眉間の上に生えているとされる白く長い毛で、右巻きに丸まっており、伸ばすと4.5メートルにもなるという)を入れて完成させようとしたところ、如来がこれを拒んだので、円仁は「では京に出てすべての人々、特に女性をお救いください」と願うと如来は三度うなずいたという伝えら、「うなずきの弥陀」と呼ばれるようになったという。
この阿弥陀如来を戒算上人が本尊として安置したのが、真如堂の始まりだという。

04境内mid
7月25日には、真如堂に保管されている宝物の「虫払会」が公開される。
宝物の虫干しを一般公開し、多くの人に見てもらおうという行事である。
またこの日には「極楽往生の宝印」という儀式が行われる。
あの世に行った安倍晴明が、稔持仏の不動明王の懇願により娑婆に蘇った時に、閻魔大王から授けられたという「宝印」を、参拝者一人一人の額に当てて無病息災を願うというものである。
毎年11月5日の夜から15日の朝まで有名な「十夜の法会」が行われる。
「十夜の法会」とは念仏会で、仏を感じ「南無阿弥陀仏」の念仏を10日10夜にわたり唱える法要である。

05山門mid
映画「本能寺合戦」は、明治41年(1908)牧野省三(日本最初の映画監督で、日本映画の基礎を築いた)の監督第一作で、横田商会(後の日活)が制作・配給を担った。
このときには横田商会は撮影所を持ってなく、真如堂の境内でロケが行われ、山門で森蘭丸の奮戦シーンが撮られたという。

真如堂(真正極楽寺:京都市左京区浄土寺真如町82)
京都駅から、
▼「A1」乗り場から、5系統で『真如堂前』または『錦林車庫前』下車(所要39~40分)、
「真如堂前」「錦林車庫前」から、徒歩8分