新京極通は、京の町中でも一二をあらそう繁華街であり、寺町通の東と河原町通の西の間、、四条通から三条通へと向かう南北500mの通りである。
四条通から三条通のあいだ500mの、南北に通じた通りを「新京極」という。
京極とはもともと京の端という意味で、平安京時代、都の両端にそれぞれ、東西各京極通りが南北に通っていた。
平安京の東の果てを「東京極大路」と云い、現在の寺町通にあたり、当時は30mもの道幅があったという。
平安京は造営される前から、右京の地は湿地帯で住むのに適さず、左京が平安京の中心となってゆき、右京は段々と寂れてゆくのである。
その為に、いつしか東京極は東が取れて「京極」と呼ばれるようになる。
さらに豊臣秀吉の京都改造で、東京極大路に寺院が集められ、寺町通となる。
明治になり、東京遷都で沈んだ京都に活気を取り戻す為に、寺町通の一筋東に「新京極」という一大、歓楽街を作るのである。
新京極の駒札には、
『北は三条通から南は四条通に至る約500mのこの通りを新京極通といい、通り名は平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町通)の東側に造られた通りであることに由来する。
天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉が市中の寺院を寺町通に集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。
明治5年(1872)、このことに注目した京都府参事槇村正直(まきむらまさなお)は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。
新京極通の誕生である。
明治10年(1877)頃には、芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本の三大盛り場として知られるようになった。
現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買物客でにぎわう、京都を代表する繁華街である。
上方落語の始祖・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。』
出典:【新京極の駒札】より
見世物や芝居など娯楽の町として発展した新京極は、昭和50年頃までは多くの映画館が軒を並べていたのだが、現在は松竹のシネコン・MOVIX京都があるのみとなり、従来は修学旅行生や観光客のみだった通りも、近年は若年層向けの店舗も増え通りの様子が様変わりした。
新京極は、松竹のシネコン・MOVIX京都があるように、ここは「松竹」発祥の地でもある。
松竹は、明治28年(1895)に、大谷竹次郎が新京極にあった「京都阪井座」を買い取り、興行主となったことに始まり、明治35年(1902)に、双子の兄・白井松次郎(白井家の養子となり姓が変わる)と共に「松竹合名会社」を設立し、大正9年(1920)に映画制作を手掛けることになり、現在に至っている。
新京極(京都市中京区新京極)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4。17。205系統で『四条河原町』下車(所要11~13分)
「四条河原町」から、徒歩4分
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