京都駅から5系統のバスにのり「一乗寺下り松町」で降り、東に5分ほど歩くと「金福寺」がある。
金福寺は、松尾芭蕉ゆかりの「芭蕉庵」があり、庵のまわりには石碑や句碑が多くあり、また与謝蕪村の墓もあることから、京都でも有名な俳跡として名高い寺院である。
また幕末の安政の大獄で、井伊直弼の密使として暗躍した、村山たか女の終焉の地としても知られている。

01金福寺mid
金福寺の由来は、
『佛日山金福寺は、清和天皇の貞観6年、慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り、国家安泰、衆生救済を念じて創建された。
その後、一時荒廃したが、元禄の頃、鉄舟和尚が、復興して臨済宗とした。
その頃、松尾芭蕉は時々、鉄舟和尚を訪ねて親交を深めて居たので人々が、後丘の庵を芭蕉庵と云う様になった。降って安永の頃、与謝蕪村の一門が庵の退廃を慨いて、再興したのが、今日の庵室で、彼等はしばしば当寺を訪れ、句会を開いて居た。
この寺は、観音の霊場で、また、俳諧の聖地とされ蕪村、呉春、慶文、中川四明、青木月斗、穎原退蔵とのゆかりも深い。
うき我を さびしがらせよ 閑古鳥 芭蕉」』
                        出典:【金福寺の由来の駒札】より
拝観料500円を納めて中に入ると、本堂には、本尊の「観世音菩薩」、蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」や「芭蕉翁の肖像画」、そして蕪村一門が使ったという「二見型の文台と重硯箱」などがあり、また村山たか女の遺品などが展示されている。

02芭蕉庵mid
金福寺には、松尾芭蕉と与謝蕪村にまつわるものがあり、俳跡の寺として有名である。
江戸元禄の頃、松尾芭蕉は山城の国を吟行した頃に、鉄舟和尚が再興した金福寺を訪れ、雅についてこの寺の庵で語り合ったといい、後に鉄舟和尚は、この庵を「芭蕉庵」と名付け、芭蕉の俳諧を偲んだという。
その後、与謝蕪村がここを訪れた頃には荒廃がすすみ、見るべき姿はなかったのだが、芭蕉を慕っていた蕪村は一門をあげて安永5年に、この庵を再興したのである。そのときに詠んだ句が、『耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵』である。

03芭蕉の碑mid
また金福寺には、蕪村や道立が建てた「芭蕉の碑」があり、芭蕉の生涯を称えた文が刻まれている。この碑の建立時に蕪村は、『我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花
と詠み、その望みとおりに、この碑の後丘に与謝蕪村の墓がある。

04与謝蕪村mid
与謝蕪村は、享保元年(1716)から天明3年(1783)の江戸中期を生きた俳人であり画家でもある。
摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)に生まれ、二十才頃に江戸に出て、早野巴人(はやの はじん)の弟子となり俳諧を学ぶ。
師が亡くなると、10年間奥羽一円を旅し修行した後、36才のときに京都に上る。39才から3年間丹後で画業に専念し、ここで姓を与謝と改めている。
与謝蕪村と称してから世に認められ、池大雅や円山応挙と並び賞されるようになる。
晩年にはこの金福寺で度々句会が催された。
蕪村の代表的な句に、
『菜の花や 月は東に 日は西に』
『春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな』
『ゆく春や おもたき琵琶の 抱心』
『五月雨や 大河を前に 家二軒』
『門を出れば 我も行人 秋のくれ』
『鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分哉』
『冬近し 時雨の雲も ここよりぞ』などがある。

05弁天堂mid
また金福寺には、日本で最初の女スパイといわれる、村山たか女に所縁のある寺でもある。
門前の横には、たか女が建立したという弁天堂があり、その入口には「村山たか女創建の弁天堂」との案内板が掛かる。
『此の弁財天は、舟橋聖一作「花の生涯」のヒロイン、村山たか女(妙壽尼)が慶応3年に創建したものです。
たか女は文化6年(1809)己己(きみ)の年に生まれました。
己(白い蛇)は弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は弁天さんを深く信仰して居たものと思われます。
井伊大老が、桜田門外で遭難してより二年の後の文久2年たか女は金福寺に入り、尼僧として行いすまし、明治9年9月丗日当寺に於いて六十七才の生涯を閉じたのでした。
法名 清光素省禅尼』
                      出典:【村山たか女創建の弁天堂】より

06村山たか女mid
村山たか女とは、NHKの大河ドラマの第一作である「花の生涯」に登場する、日本で始めての女の密偵(スパイ)であった。まさかここに登場する、長野主善や村山たかも実在の人物とは想像だにできず、テレビを見ていたものである。
文化6年(1809)に近江国に生まれ、京の祇園で子供をもうけるが私生児のために、生まれ故郷の彦根に戻り、そこで井伊直弼と知り合うこととなる。
やがて直弼が44才で大老職につくと、京にいた、たか女は倒幕派の動きを探り、長野主善を通して江戸幕府に情報を流し、安政の大獄に加担をしたのである。
そのことにより、桜田門外で井伊直弼が暗殺されると、勤皇攘夷派によって捕らえられ、息子の多田帯刀は斬首されるが、たか女は女であるがゆえに、文久2年(1862)に、三日三晩、三条河原に晒されたが命ながらえ、この金福寺にて尼僧となり、名を妙壽と改めて、その後、井伊直弼や長野主善、息子の帯刀らの菩提を弔い、14年間ここで余生を送り、明治9年に67才の生涯を閉じるのである。
その墓は、園光寺にあるのだが、たか女に所縁の金福寺には、その菩提を弔うために、本墓の土を埋め、たか女の筆跡を刻んだ参り墓が建っている。

金福寺(京都市左京区一乗寺才形町20)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で、『一乗寺下り松町』下車(所要50分)
「一乗寺下り松町」から、東に徒歩5分