鴨沂高校から寺町通を北に少し行くと、東に小さな通りが鴨川へと続いている。これが荒神口通である。
その北側にある京都府立鴨沂高等学校のグランドの塀に埋め込まれるようにして立つのが法成寺の跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑である。

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法成寺は平安時代中期に、摂関政治の全盛を極めた藤原道長により、主家の土御門殿の東、鴨川の西岸に建てられた寺院で京極御堂とも呼ばれた。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」と、この世の栄華を極めた道長が病に苦しんで浄土信仰の阿弥陀如来にすがり、西方浄土に導かれることを願い、寛仁(かんにん)3年(1019)に出家し、阿弥陀堂を造り無量寿院と称した。
無量寿院は東西2町、南北3町に及び、数多の堂塔伽藍が建てられ豪壮を極め、治安2年(1022)に名を法成寺と改められた。
法成寺は宇治平等院の範となった寺院であり、鴨川からの眺めが宇治川から見た平等院のように見えたと思われる。
道長は、万寿4年(1027)法成寺で西方浄土に導かれることを願い、62才で往生する。
道長が亡くなった3年後には、上東門院(藤原彰子:じょうとうもんいん・道長の長女)により東北院が建立され、嫡男の頼道(よりみち:平等院を建立)も伽藍を建てるなど繁栄は続いたが、度々の災禍に遭い鎌倉時代末期に廃絶し、今その名残を留めるものはこの石碑のみである。
またこの石碑には、「源氏物語ゆかりの地」として説明板が設置されており、法成寺が紫式部の後ろ盾であった藤原道長の造営になることから、源氏物語に関する地とされている。

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「源氏物語ゆかりの地」の説明板によると、
『寛仁3年(1019)、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂が出現した。
平安京外の東一帯に位置することから。「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれている。
度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれ(「徒然草」)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。
ここには寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑がある。
発掘調査では法成寺址の遺構は見つかっていないが、鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土している。』
                         出典:【法成寺址の説明板】より

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京都府立鴨沂高等学校は、寺町通に面し御所の隣にある高校として、また、その前身は日本でも最古の女学校「新英学校女紅場」として知られる学校である。
「鴨沂」と書くのだが、とても「おうき」と読むことは出来ない。
名前の由来は、鴨川の「鴨」と、水のほとりという意味がある「沂」とから。鴨川のほとりにある学校ということから名付けられたという。
その成り立ちは、明治5年(1872)に「新英学級及び女紅場」が開校をされるのだが、女紅場とは、女子のために裁縫や機織・読み書きなどを教える学校であり、明治10年頃になるとその殆んどが女学校として改制をされている。

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そして、この場所にあったのが、新英学校女紅場で、後に京都第一高等女学校となり、現在は京都府立鴨沂高等学校となるのである。
明治33年(1900)に現在の地(京都御苑の寺町通を挟み向い側、寺町通荒神口下ル松陰町)に移り、茶室と正門が移築された。
正門のみを見ていると、とても学校だとは思えない。
この時に、京都第一高等女学校と改称され、戦後の学制改革により、鴨沂高等学校と改称され男女共学となっている。
少し前は、私服での通学であったが、2013年に制服が導入され、また型にはまった人間を作りだそうとしているようで、それまでの自由闊達な精神と、京都大学への進学率が全国一であった頃を偲ぶよすがも窺いしれないようである。
この学校の卒業生に、山本富士子、団令子、加茂さくらなどの女優や田宮二郎などスクリーンで活躍した人達がいて、森光子や沢田研二もこの学校に席を置いていた。

法成寺址(京都市上京区荒神口通寺町東入北側)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・7・205系統で、『荒神口』下車(所要22分)
「荒神口」から、徒歩2分