高瀬川に架かる蛸薬師橋を超え、土佐藩邸跡を右に見て、木屋町通を南に、紙屋橋の向かい側に、本間精一郎が斬殺された場所がある。
本間精一郎は、天保5年(1834)に越後寺泊の「かくほん」という屋号の、酢醤油を醸造している豪商の家に生まれる。
嘉永6年(1853)に、「曇なき 真澄の月の 心もて あわれ雲井に 名を照さばや」
を生家の壁に残し、二十才で越後をあとにする。
江戸に出て、勘定奉行川路聖謨(かわじ としあきら)の中小姓となり、昌平黌で学んでいる。
安政5年(1858)、川路に従って上洛をし勤王派と交わったことで、安政の大獄で捕らわれ、出獄すると勤王の志士として活動をするようになり、雄藩に属さず自由に行動が出来、長州や土佐にも遊び自説を説いた。
精一郎の考えは、討幕の王政復古であり、外国との貿易の交渉には反対で、攘夷論を唱え、さらに公武合体には反対の意を表した。
文久2年(1862)に、伏見の寺田屋で尊王攘夷の急先鋒であった、有馬新七以下薩摩の急進派が島津公の上意により討たれてからは、悲憤慷慨し酒色に溺れ、公卿や薩長土の志士を罵倒するなどしたため、薩摩、土佐から嫌われるようになり、文久2年(1862)閏8月の夜半、先斗町で芸者と遊んだ帰りに刺客に襲われ、南側の瓢箪路地をこの木屋町まで逃げたものの、人斬りと云われた、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛ら8名の刺客によって斬られた。享年29才、初秋の夜のことであった。
駒札には、
『文久2年(1862)閏8月20日夜、勤王の志士・本間精一郎はここで襲われる。
精一郎は越後(現在の新潟県)に生まれ、文武両道に秀で弁舌も巧みで、友人も多かったという。
江戸に出て遊学し、安政の大獄の後、京の都に上って尊王攘夷活動にに身を投じた。
特定の藩に属さなかったため、自由に行動することができ、公卿にも接触を図り、長州や薩摩、土佐の藩士にも遊説をし、尊王攘夷思想の急進派とされていた。
しかしその活動は伏見「寺田屋事件」で封じられ、精一郎はその頃から酒色におぼれ、仲間にも罵声を浴びせるようになり、同志からも次第に嫌われるようになったという。
この夜、先斗町三条の料亭で遊び、四条の料理屋を出た帰り道を精一郎は襲われた。
この南側の瓢箪露路を木屋町へ逃げようとしたが、前から二人、後ろから六人にはさみ討ちにされ斬殺された。
襲った八人の中には薩摩藩の田中新兵衛や土佐藩の岡田以蔵もいたという。
本間精一郎、時に29才であった。』
出典:【本間精一郎遭難地の駒札】より
本間精一郎遭難地(京都市中京区木屋町通四条上る東側)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、『四条河原町』下車(所要11~17分)
「四条河原町」から、徒歩5分
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