川田道と醍醐道の交差点から南側すぐに「大石神社」がある。
大石神社の最寄駅は地下鉄東西線の椥辻なのだが、ここから歩くと30分の距離があり、最寄駅とは言えないので、バスに乗り「大石神社前」で降りると、徒歩2分である。
大石神社は大石内蔵助良雄を祭神として祀る神社で、吉良邸に討入りをするまで、この辺りに住まいをした場所で、昭和10年(1935)に、浪曲師の吉田奈良丸を会長とした山科義士会によって創建されたものである。

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祭神である大石内蔵助の名を知らしめたのが、元禄15年(1702)12月14日、本所松坂町(現、墨田区両国)にあった吉良邸に討ち入った「赤穂事件」で、京の朝廷からの使者をもてなす時に、勅使饗応指南役の吉良上野介に、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良に切り掛り、浅野は即日切腹、吉良はお咎めなしという幕府の裁断に異義を唱え、大石内蔵助を筆頭に赤穂の元藩士四十七名が吉良家に討ち入りを指導した人物である。


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駒札によると、
『この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。
大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。
大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。
閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利であったからであろう。
この地でしばしば同志の会合を開いた。
はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。
しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集った。
大石は、同年5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。』
                          出典:【大石神社の駒札】より

03橦木町mid 04祇園一力mid
         撞木町                  祇園一力
ここに住んだ大石は、浅野家再興の望みが絶たれると、密かに吉良邸への討入りを決意するのだが、その思惑を秘匿するために、伏見の撞木町の遊郭や祇園の一力亭にて遊興の限りをつくし、吉良への討入の素振りは微塵もみせなかったのである。
山科のこの地から伏見や祇園には峠越えの必要があり、当時は遊ぶのも大変だったようである。

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大石内蔵助がお家再興や、吉良邸討ち入りを果たすまでの間、山科に地に隠棲した史実に基づき大石や赤穂義士を偲び「山科義士まつり」が、昭和49年(1976)から始められる。
山科義士まつりは、討ち入り装束に身を固めた四十七士が大石内蔵助を先頭に、毘沙門堂を出発し、山科駅から南に続く外環状線を南に、地下鉄の椥辻駅で右に折れて、新十条通を西に、最終目的地である大石神社までを行列するというものである。
途中、東部文化会館で子ども義士隊や女性たちの「大石音頭」や「元禄花見踊り」が披露され、東映太秦映画村の協力にて「刃傷松の廊下」や「切腹」「連判状改め」「討ち入り」などの芝居などが行われ祀りを盛り上げる。

大石神社(京都市山科区西野山桜ノ馬場町116)
京都駅から
▼JR琵琶湖線で「山科」下車(所要4分)、京阪バス「大宅」行きで『大石神社前』下車(所要15分)
 「大石神社前」から、徒歩3分