東福寺の境内を日下門から出て中大門に至るまでの参道に、東福寺の塔頭であると「芬陀院」がある。
東福寺の塔頭・芬陀院(ふんだいん)は、水墨画で有名な雪舟が作った庭があることから、雪舟寺とも呼ばれ、鎌倉時代の元亨年間(1321~24)に、関白・一条内経が定山祖禅和尚を開山として創建し、以来今日まで一条家の菩提寺となっている。
駒札には、
『東福寺の戸頭で、元享(げんこう)年間(1321~1324)に時の関白一條内経(うちつね)公が、東福寺の開山である聖一国師の法孫・定山祖禅和尚を開山に迎えて創立した。
水墨画などで有名な雪舟等楊禅師が、東福寺に参るときは必ず当院に身を寄せ、庭を作ったので雪舟寺ともいう。
建物は、元禄4年(1691)と宝暦年間(1751~1763)の二度、火災にかかったが、桃園天皇の中宮恭礼門院の御殿の一棟を賜って移築し、更に明治32年(1899)に昭憲皇太后から御内帑(ないと)金を下賜されて改築した。
「鶴亀の庭」として知られる方丈の南庭は、寛正・応仁期(11460~1468)の雪舟の作と伝えられ、美しい苔地の中に鶴島と亀島の石組があるのが特徴で、昭和14年(1939)に復元修理された。
東庭は重森三玲作の枯山水庭園で、書院の背後には、茶関白といわれるほど茶道を愛した一條昭良(あきよし:恵観)好みの茶室図南亭がある。』
出典:【芬陀院(雪舟寺)の駒札】より
雪舟は、号を雪舟、諱(いみな)を等楊(とうよう)といい、応永27年(1420)備中赤浜(現、岡山県総社市)に生まれる。
幼い頃、宝福寺に入るのだが、絵ばかり書いて経を読もうとしないので、仏堂の柱に縛り付けられた時に、床に落ちた涙を足の指で描いた鼠があまりにも見事だったので、絵を描くことを許されたという逸話が残っている。
10才で京の相国寺で禅の修行に入るとともに、絵を学んだ後、享徳3年(1454)周防国の大内教弘の庇護を受ける。
応仁元年(1467)中国の明に渡り、2年間水墨画を学び「四明天童山第一座」の称号を得ている。
文明元年(1469)に帰国すると、周防国(山口県)の雲谷庵を拠点として石見国(島根県)、豊後国(大分県)などで創作活動を行い、多くの作品を残している。
特に、「天橋立図」「秋冬散水図」「四季山水図巻」「破墨山水図」「慧可断臂図」「山水図」は国宝で、日本の絵画史で他界評価を得ている。
雪舟の最期は、山口市の雲谷庵、益田市の大喜庵、岡山県芳井町の重玄寺など諸説あるが、永正3年(1506)87才で没したとされる。
芬陀院(京都市東山区本町15丁目803)
京都駅から
▼「D2」乗り場から88・208系統で『東福寺』下車(所要12分)
「東福寺」から、徒歩10分
▼JR奈良線で、『東福寺』下車(所要3分)
「東福寺」から、徒歩10分
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