京の六地蔵巡りは、850年の伝統を持ち、8月22、23日に、京の六街道に安置された地蔵尊を巡り、頂いたお札を家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるという。
六つの出入口にある地蔵尊は、
「奈良街道」:伏見六地蔵(大善寺)・伏見区桃山西町六地蔵-JR奈良線/京阪「六地蔵」駅
「西国街道」:鳥羽地蔵(浄禅寺)・南区上鳥羽岩ノ本町-市バス「地蔵前」
「山陰街道」:桂地蔵(地蔵寺)・西京区桂春日町-阪急桂駅・市バス「桂消防署前」
「周山街道」:常盤地蔵(源光寺)・ 右京区常盤馬塚町-市バス「常盤」・京福「常盤」駅
「若狭街道」:鞍馬口地蔵(上善寺)・北区鞍馬口通り寺町-地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅
「東海道」 :山科地蔵(徳林庵)・山科区四ノ宮泉水町-京津線「四ノ宮」駅

01浄禅寺mid
六地蔵めぐりの2番札所が、西国街道にある、鳥羽地蔵「浄禅寺」である。
山号を恵光山(えこうざん)と号する、浄土宗西山禅林寺派に属する寺院で、平安時代の寿永元年(1182)に文覚上人(もんがくしょうにん:北面の武士・遠藤盛遠が出家し文覚と名乗った)の開基と伝えられ、境内に袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)があることから、恋塚浄禅寺とも呼ばれている。
本堂には本尊阿弥陀如来立像、観音堂には十一面観音立像が、地蔵堂には地蔵菩薩立像が安置されている。

02地蔵堂mid
地蔵堂に安置された地蔵菩薩立像は、平安時代の仁寿2年(852)に、小野篁(おののたかむら)が作ったと伝えられる。
閻魔大王に仕える篁は、地獄で苦しんでいる人々を救う一人の僧を目にする。その僧は地蔵菩薩で、
「天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道の迷いの世界を巡りながら縁ある人々を救っている。
全ての人を救いたいが、縁のない人を救う事はできない。
貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめてほしい」
と聞いて地獄から戻った篁は、木幡山から一本の桜の木を切り出して、六体の地蔵菩薩像を刻み、小幡の里・大善寺に納めた。
保元2年(1157)に、後白河法皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口六ケ所に一体づつ地蔵像菩薩像を分置したうちの一体である。
たうちの一つである。

03本堂mid
駒札によれば、
『恵光山(えこうざん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院である。
寺伝によれば、寿永元年(1182)の文覚(もんがく)上人の開基で、境内に袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)といわれる五輪石塔があることから、恋塚の名で知られている。 
平安末期の北面の武士・遠藤盛遠(もりとお)は、渡辺左衛門尉渡(さえもんのじょうわたる)の妻・袈裟御前に恋し、渡と縁を切ることを迫ったところ、袈裟御前は夫を殺してくれと盛遠にもちかけ、操を守るため自分が夫の身代わりとなって盛遠に殺されてしまうという悲恋の物語が伝わる。
自分の罪を恥じた盛遠は出家して文覚上人となり、袈裟御前の菩提を弔うために当寺を建立したとされている。
本堂には、十二世紀に作られた本尊阿弥陀如来立像を安置し、観音堂には、十世紀の作とされる十一面観音立像(市指定有形文化財)を祀っている。
また、地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、一般に「鳥羽地蔵」と呼ばれている。
毎年、8月22・23日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者でにぎわう。』
                         出典:【恋塚 浄禅寺の駒札】より

04五輪塔mid
浄禅寺には一基の五輪塔があり、これが袈裟御前の恋塚だと言われている。
浄禅寺は、寿永元年(1182)に文覚上人により開基されたもので、文覚上人は北面の武士だった遠藤盛遠であり、この人物が人妻の袈裟御前に横恋慕し、悲しい結末を向えるのだが、文覚上人の開基になる寺には、袈裟御前に関わるものがあり、ここ浄禅寺にも袈裟御前を弔う五輪塔が建っている。

05恋塚碑mid
浄禅寺山門の横には、正保4年(しょうほう:1647)に高槻藩藩主・永井直清が林羅山に撰させて袈裟の節義を顕彰した「恋塚碑」が境内に建っている。

そのいわれは、悲しい女の物語であり、その名を袈裟といい、渡辺渡の妻となり日々、慎ましやかに過ごしていたのだが、そこに渡と同じ北面の武士である遠藤盛遠が横恋慕をするのである。
或る日のこと通り縋る牛車の中に、
「青黛(黒ではなくて青、感覚的には藍色に近いか)の眉に、円花(丸いさま、丸くて小さい、所謂おちょぼ口)のような唇が愛らしく、雪のような白い肌に桃の香りを纏(まと)った」
とある美しい女(ひと)を見かけ、盛遠は一目惚れをするのだが、思い叶わぬ人の妻。
盛遠は、思いあまり袈裟の母の衣川に、袈裟に会わせろと刀を抜いて迫るのである。
衣川は已む無く袈裟を呼びよせ、小刀を渡し「彼に殺されるならお前にと」と云われると、老母に孝を尽くさんと袈裟は不承不承に承知をし盛遠と会うのである。
盛遠に会ってみると、今度は渡辺渡と別れて自分の妻にと言われ、断ると母の命と引き換えにと迫られ、母の命か夫との離縁か、不孝もならず不貞もならず、迷った挙句に承知をするのである。
しかし袈裟は、「私も一度は夫と契を結んだ身、別れるならば夫を殺して欲しい」と頼み、
「門を開けておくので八つの鐘と同時に屋敷に踏み込み、首を取ってくれ」と言う。
そして盛遠は八つの鐘が鳴ると同時に、屋敷に踏み込み首を討ち果たすのだが、その首がなんとあの愛しい袈裟だったのである。
不孝と不貞の間で悩んだ末に、袈裟の取った行動は自分の身を捨てるということであった。
辞世の句に、「露深き 浅茅が原に 迷う身の いとど暗路に 入るぞ悲しき」 と残されていた。
この事を知った盛遠は、自分の犯した罪の深さを恥じ入って、即座に髪をおろし名を文覚と改めての鳥羽の地に寺院を建て、袈裟の菩提を弔うのである。
浄禅寺から西に歩いたところにも、文覚上人が建立したという「恋塚寺」があり、ここにも袈裟御前にまつわる石塔と碑が建っていて、比較的近くに袈裟御前に関わる二つの寺がある。

06大宮大橋mid
浄禅寺から帰るには、18系統のバスに乗り「四条大宮」方面に出るか、または近鉄・地下鉄の「竹田」駅まで出るかの二通りなのだが、竹田駅を経由する18系統のバスが少なく、朝と夕方しかなく、また四条大宮へ引き返しても京都駅は通らないので、事前にグーグルマップで、竹田駅まで最短の20分で歩けるルートが示されていたので、浄禅寺からそのルートに従って歩くこととした。
浄禅寺からは国道1号線を横切るのだが、示されたルートは、西から東に1号線を横切るとなっていて真っすぐに歩かせないのだが、この理由は途中に鴨川を渡る必要があり、ここに架かる橋を渡るには、高架道路に出ないと橋が渡れないのである。
大宮通の鴨川に架かる「大宮大橋」を渡ると、阪神高速8号線の下をくぐり、名神高速を右に見て歩くと、竹田の駅となる。
グーグルマップのルート通りに歩くと、方向音痴の自分でも途中で迷うことなく、目的地の竹田駅に着くことが出来たのである。

浄禅寺(京都市南区上鳥羽南岩ノ本町90)
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統、または「C6」乗り場から28系統、または「D3」乗り場から26系統で『四条大宮』乗り換え(所要13~15分)
四条大宮から18系統で『地蔵前』下車(所要27分)
「地蔵前」から、すぐ
▼近鉄京都線または地下鉄烏丸線で『竹田』下車(所要5~7分)
「竹田」から、南に徒歩20分