松原通と西洞院が交差する南西角(50系統の市バスで「西洞院松原」下車)にあるのが、五條天神宮である。

01五條天神宮mid
延暦13年(794)の平安京遷都の折に、桓武天皇の命により空海(弘法大師)が、大和国宇陀郡かた天つ神を勧請し創建したのが始まりという。
少彦名命(すくなびこなのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、大巳貴命(おおあなむちのみこと)などを祀る洛中最古の社で、古くから農耕、医薬の神として信仰された。
天明の大火(1788年)やどんどん焼け(1864年)で焼失するが、都度、再建をされている。
毎年、節分日には日本最古の船に稲穂を一束乗せた宝船図が授与され、厄除け、病除けのご利益がある。

02五条大橋mid
駒札(五条天神宮(義経」・弁慶出合いの場所)によれば、
『当社は古名を「天使社」といい、平安朝初期以来の歴史を持ち、上下の尊崇を受けてきた古社である。
「今昔物語」「徒然草」などにも記載が見られるが、その名が著名になったのは、牛若丸と弁慶の最初の出会いが、当社の近辺だったことを記した「義経記」の文とそれに取材した能楽「橋弁慶」からである。
この五条天神に丑刻詣をした弁慶が、笛を吹きつヽ歩く牛若を見つけ、その腰の黄金造の太刀を奪いにかかる所がら、両者の争闘が始まる。
敗北した弁慶が義経の家来となる機縁は当社に由来する。
童謡の「五条橋」は鴨川に架かっていた橋(現、松原橋の位置)だが、当社の東側を流れていた西洞院川の橋だという伝説もある。
秀吉によって橋が移されてから、平安朝以来の「五条大橋」の名も消え、東方の松並木から「松原通」となって現在に至る。』
                         出典:【五条天神宮の駒札】より

03松原橋mid
千本目の刀をめぐり、牛若丸と弁慶が戦ったのが五条の大橋だということは歌にも歌われているのだが・・・
しかし、現在の五条の大橋は、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり参詣のために付け替えたものであり、牛若丸と弁慶が出会った頃には無かった橋である。
もともとの五条の大橋は、五条大橋から上流に350mの所にある、現在の「松原橋」であり、平安京ではこの通りが五条大路であり、ここに架かる橋が「五条大橋」だったのである。
では弁慶と牛若丸は、この五条の橋(現、松原橋)の上で戦ったのかというと、これまた疑念が湧く。
それでは実際は何処戦ったのかというと、実はここ五條天神宮の森こそが、弁慶が999本の刀を奪い後1本で満願成就の時に牛若丸と出会った処だと言うのである。
小学唱歌には、「京の五條の橋のうえ、大の男の弁慶が牛若めがけて切り掛かったとあるが、実は・・・ということになるらしい。
松原通(旧五条大路)にあった五條天神の森こそが牛若丸と弁慶が出会った処であり、その森のあとに「五條天神宮」が建っているのである。

五條天神宮(京都市下京区松原通西洞院西入天神前町351-2)
京都駅から
▼「B2」乗り場から50系統で『西洞院松原』下車(所要27分)
「西洞院松原」から、すぐ