幕末の頃、壬生には肥後藩細川家の藩邸があった。
もとは京都市役所の西、柳番場押小路にあったのだが、幕末に壬生寺から東に歩いて3分の、仏光寺通壬生川に移っている。
それを標す「肥後屋敷跡」の石碑が民家の敷地にひっそりと建っている。

01屋敷跡mid
「津軽じょっぱり」、「土佐いごっそう」と共に、日本三大頑固のひとつ「肥後もっこす」の肥後国(現在の熊本県)は、戦国時代、菊池、阿蘇、相良と各大名が群雄割拠していたが、鉄砲を持った薩摩藩島津家によって滅ぼされ、その島津も九州平定を目前にして、豊臣秀吉に敗れてしまう。
その後、肥後に佐々成正が入るのだが統治に失敗し、秀吉によって切腹を命じられる。
その後を、肥後北部を加藤清正が、南部を小西行長が治めることとなり、関ケ原の合戦を向かえることになる。
加藤清正は東軍に、小西行長は西軍に付き、西軍が敗れたため行長は斬首となり、その所領を清正が拝領し52万石の大名となる。
清正は今に残る「熊本城」を築城し、「隈本」から「熊本」に改めている。
しかし2代目・忠弘の時に、駿河大納言忠長狂乱に連座したとでっち上げられ、出羽国に流罪となり、その後に細川忠利が入城し、明治維新まで城主を務めるのである。

忠利の時に、宮本武蔵を迎え、武蔵はここで晩年を過ごしている。
3代目綱利の時に、赤穂事件が起り、江戸屋敷に赤穂義士17名を預かり、その最期を見取っている。
5代宗孝が、江戸城中で旗本に斬られるという事件が起っている。
幕末には、勤王か佐幕か決められないまま、池田屋事件で宮部鼎蔵が斬られ、改革派の横井小楠も失脚し、戊辰戦争が勃発すると新政府軍に加わり、彰義隊の討伐などに参戦している。
ちなみに、昭和58年(1983)に内閣総理大臣になった細川護熙(もりひろ)は細川家18代当主である。

京都駅から
▼「C6」乗り場から28系統、または「D3」乗り場から26系統で『壬生寺道』下車(所要14分)
「壬生寺道」から南東に、徒歩6分