市バスを「東山安井」で降り、東山に向かって10分ほど歩くと「京都霊山護国神社」がある。
明治元年(1868)につくられた招魂社(国のために亡くなった人を祀る)を、昭和14年(1939)に、本殿や拝殿をつくり「京都霊山護国神社」」とする。
霊山には、近江屋で暗殺された坂本龍馬・中岡慎太郎、明治10年(1887)病没し「かつての同志と共に眠りたい」と遺言した木戸孝允(桂小五郎)をはじめ天誅組の義挙、池田屋事件、禁門の変等に加わった志士の墓300余基があり、1356柱が合祀されている。
さらに日清・日露・太平洋戦争に至る京都府出身の英霊7万3千11柱も祀られている。
霊山に祀られている志士たちは、尊王攘夷の考えを基に活動を行っていた。
安静4年から5年(1857~58)の当初は、攘夷を唱える過激派の橋本左内ですら、攘夷の詔(みことのり)が出されれば事は鎮まると考えていたのだが、ときの大老井伊直弼(なおすけ)が反幕派を弾圧(安政の大獄)したこで尊皇攘夷派が反発し、安政7年(1860)に桜田門外で井伊直弼を暗殺し(桜田門外の変)、要人の暗殺や外国人襲撃事件が起こるようになる。
京の町では、文久2年(1862)頃から、天誅と称する暗殺が頻発し、佐幕派の公家や武士、攘夷派の取り締まりにあたった与力や目明しまでもが天誅にかかっている。
文久2年から明治維新までの7年間(1862~68)、天誅組の変や新選組による池田屋事件、長州藩の御所への武力嘆願の禁門の変などの血生臭い事変が発生し、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争により、徳川幕府は滅亡し明治維新を向かえるのである。
霊山には、池田屋の変や禁門の変で非業の死を遂げた志士たちは、左から、
福岡祐次郎(伊予(松山)藩士)池田屋の変にて闘死。
河瀬室幸
河瀬太宰(近江膳所藩士)
駒井躋庵
古高俊太郎(近江国の代官手代の子)新選組の捕縛され、池田屋事件の発端となる自白をする。六角獄舎に収容されるも、禁門の変での火災に乗じて、36才で斬首される。
大高又次郎(播州林田藩士)池田屋の変にて42才で斬死。
広岡浪秀(長州の神官)池田屋から脱出するも、長州藩邸付近にて、24才で絶命。
そして、
本山七郎(土佐高岡郡の庄屋の五男)本名は、北添佶摩、池田屋の変にて、30才で闘死。
松田重助(肥後(熊本)の志士)池田屋で捕縛、翌朝脱出するも河原町で、会津藩士により、35才で斬殺。
伊藤香力
宮部鼎蔵(肥後(熊本)藩士)池田屋の変にて、45才で自刃。
川嶋武二郎(近江膳所藩士)禁門の変にて、24才で戦死。
武林八郎(河内の志士)天誅組の変で捕縛、釈放され、禁門の変で鷹司邸にて戦死。
粟屋良之助(近江膳所藩士)禁門の変で堺町御門にて、24才で戦死。
若松弘之進(豊後(大分)の医師)禁門の変で蛤御門にて戦死。
の名が墓石にある。





コメント