六角獄舎は平安時代に設置された牢獄で、京の市中を転々とし宝永5年(1708)京の町を灰燼に帰した、宝永の大火以降に中京区六角通大宮西入南側に移り、六角獄舎と呼ばれ幕末まで牢獄として使用された。
六角獄舎の地は「勤皇志士・平野國臣外数十名の終焉之地」であり「日本近代医学発祥之地」でもある。
安政の大獄(1858年)では、六角獄舎に多くの政治犯や勤皇志士を収容し、阪本龍馬と恋仲だったお龍さんの父、楢崎将作も安政の大獄に連座してここに収監されている。
元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」で生じた火災が京都市中に広がり、火勢が「六角獄舎」に迫る恐れが生じるや、「火が堀川まで迫ったら、重罪人を斬首せよ」と京都西町奉行の滝川具挙(ともたか)は志士達の脱走を恐れて斬首するのである。
この時斬られたのが、生野の変にて捕えられた平野國臣や、池田屋の変の発端となった古高俊太郎、足利氏木像梟首(きょうしゅ)事件の長尾郁三郎、天誅組の変の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)など30数名にのぼった。
余談だが、斬首を命じた滝川具挙はその後、大目付に昇進し鳥羽伏見の戦いで幕府軍の指揮をとっている。
またこの六角獄舎は、宝暦4年(1754)医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った所でもあり、日本近代医学発祥の地とされる。
「殉難勤皇志士忠霊塔」の横に建つ「山脇東洋観臓之地」の碑文には、
『山脇東洋(名は尚徳1705~1762)は、所司代の官許をえてこの地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった 。江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。
この記録は5年後に「臓志」としてまとめられた。これが実証的な科学精神を医学にとり入れた成果のはじめで、日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった。』
とある。』
出典:【山脇東洋観臓之地の碑文】より
獄舎跡の駒札には、
『幕末尊皇攘夷派の指導者平野国臣が処刑された所である。
この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。
国臣は、もと福岡藩士で、尊皇攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。
ところが同年7月19日、長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士 たちを斬った。
この時斬られた一人が国臣である。
この難にあったものは、国臣のほか古高俊太郎、長尾育三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。
なお、当地は、宝暦4年(1754)に、医師山脇東洋が、わが国で初めて死体解剖を行ったところとも言われ、付近には記念碑も建っている。』
出典:【平野國臣殉難の地の駒札】より



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