禁門の変は一日で終わり、一方的に長州側の負け戦となり、久坂玄端や寺島忠三郎らが自刃した堺町御門近くの鷹司邸と、長州藩が敗走の祭に火をつけた長州屋敷の二か所からあがった火の手が、京の町を焼き尽くしてしまうのである。
世に「どんどん焼け」と云われ、天皇が東京に移った一因だとも云われている。
火の手は東の風に吹かれ、京都御所の南側、丸太町通から南に七条通まで、東は寺町、西は東堀川に至る広範囲に広がり、800町・27,000世帯を焼き尽くすのである。
火災としては、京の町を焼き尽くした天明8年(1788)の天明大火に次ぐもので、手の施しようもなくどんどんと焼けた広がったことから「どんどん焼け」と呼ばれた。
「どんどん焼け」は長州兵が撤退する時に放った火が原因だとされてきたのだが、東本願寺や本能寺、六角堂などが燃え、木屋町通にあった加賀藩邸(木屋町通御池西角)や対馬藩邸(木屋町通三条上る西入・姉小路橋西詰)、鴨川の東側は火災を免れていることからみみて、長州屋敷(御池通河原町東入)から上がった火は直ぐに消され、ここからの類焼はなかったのではと推測されている。
それよりも、会津・福井・薩摩藩と新選組による長州敗残兵の追討による砲撃で民家に火が付き燃え広がったのではないかという説もあるようだ。
また勤皇派に協力的であった東本願寺や本能寺が焼けているのも幕軍の放火が疑われているようである。
河原町通を御池までくると、通りを越した右側に「京都ホテルオークラ」が見えてくる。
この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。
長州藩は戦国時代、毛利元就のときに中国、山陰地方を併せ持つ大大名となる。
後に、毛利輝元が豊臣秀吉に仕え、120万石という石高を受領している。
ところが、関ヶ原の合戦では西軍の総大将に担ぎ出され、大坂城に入るものの西軍が大敗。
関ヶ原で一門の小早川秀秋裏切りや吉川広家の内通など家康側に貢献し、家康に敵意はなく所領安堵の約束があったにもかかわらず・・・
関ヶ原の責任を問われ、周防(山口県の南半分)と長門(山口県の西半分)の二国に押し込められ、石高も36万9千石となっている。
居城地も日本海側の萩にするよう命じられ、以来倒幕を暗黙の国是とし、時を経て倒幕の道を歩み、明治維新を迎えることとなる。
そんな毛利氏の長州藩邸が幕末ま(というか、禁門の変まで)であったのが、この場所(京都市中京区河原町御池)である。
禁門の変で長州藩邸は焼失してしまうのだが、鳥羽伏見の戦い以降は戊辰戦争に赴く長州兵の訓練場として使われ、明治維新後は官有地となり、明治2年(1869)に京都府勧業場(京都府の勧業(産業を奨励すること)事業の中心機関)や画学校が設けられるが、明治21年(1888)に払い下げられ、洋風木像建築の「常盤ホテル」が開業する。
明治24年(1891)ロシアのニコラフ皇太子がこのホテルに宿泊し、5月11日に琵琵琶湖観光に向かった大津で、津田三蔵巡査に切り付けられるという事件が起こっている。(大津事件)
その後、買収され平安遷都1100年の明治29年(1895)に「京都ホテル」となっている。
平成13年(2001)にホテルオークラと業務提携をし、翌年に「京都ホテルオークラ」と改められ、令和4年(2022)現在の「ホテルオークラ京都」の名に改称されている。





コメント