人形の寺として知られる尼門跡寺院で、百々御所とも呼ばれる「宝鏡寺」

01宝鏡寺mid
宝鏡寺は尼五山(室町時代の五山に倣って、五つの臨済宗の尼寺が定められた)第一位の景愛寺の第世で、光厳天皇の皇女・華林宮惠厳(かりんのみやえごん)が、応安年間(1368~75年)に、小さな円鏡を持つ聖観世音菩薩を本尊として開山したのが、「宝鏡寺」の始まりである。
寛永21年(1644)に、後水尾天皇の皇女・理昌尼王(りしょうにおう)が入寺して以降、尼門跡として栄え土地の名から「百々御所(どどのごしょ)」と呼ばれた。
天明8年(1788)の大火で焼失するが、寛政10年(1798)から弘化4年(1847)にかけて再建された建物が今に残っている。

02本堂mid
駒札によると、
『宝鏡寺は、西山と号する臨済宗の寺院で、寛永21年(1644)に後水尾天皇の皇女理昌尼王が入寺してからは尼門跡寺院として栄え、今日も百々御所の名で知られる。
境内は天明8年(1788)の大火で焼失し、まず復興されたのが書院で寛政10年(1798)3月に上棟した。
建物は、東端北寄りに主座敷である御座の間、手前に次の間の大広間を配し、さらにこの西寄りに猿の御間以下七室と鞘の間が3列に並ぶ。襖絵は、天保4年(1833)に円山派の絵師により描かれたものである。
この後、少し遅れて文政13年(1830)に本堂・使者の間・玄関等が造営された。このうち本堂は、前後各3室からなる六間取の方丈形式で、後列東端は床を一段高くして上段の間とするが床の間・棚等の座敷飾りを欠いている。また、室境には狩野派の絵師により描かれた襖絵が残る。
さらに弘化4年(1847)、光格天皇勅作の阿弥陀如来像とともに御所の建物の古材を賜り、阿弥陀堂が造営された。
宝鏡寺の書院以下のこれらの建物は、尼門跡寺院の構成をよく伝えるものとして価値が高い。』
  出典:【宝鏡寺六棟(書院・本堂・使者の間・玄関・阿弥陀堂・表門)の駒札】より

03人形塚mid
尼門跡の宝鏡院は代々内親王が入寺され、天皇から折に触れ人形が贈られ、孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形が所蔵されている。
それらの人形は長らく非公開だったのだが、昭和32年(1957)に一般公開する人形展が開催されるようになり、合わせて人形供養も行われれ、昭和34年(1959)には人形塚が建立される。
人形塚は、吉川観方(よしかわかんぽう)の作で、鏡を持った御所人形が彫刻されており、台座には「人形よ誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ 汝の成仏の誠なれ 」と武者小路実篤による詩が刻まれている。

04日傘mid
宝鏡寺には室町の悪妻、日野冨子の木像がある。日野冨子は室町8代将軍足利義政の正室なのだが、応仁の乱を起した張本人だとされているようだ。
夫の義政が政治をかえりみることがなかった為に、裏で室町幕府を支えた。内助の功だろうが、裏で女性が絡むと政治は混乱の極みとなる。この当時では、女性は表舞台に出ることはなく内で支えすぎた為に悪妻と呼ばれ、応仁の乱を起した人だといわれている日野冨子の像がこの宝鏡寺に安置されている。

宝鏡寺(京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町547)
京都駅から
▼「B1」乗り場から9系統で『堀川寺ノ内』下車(所要27分)
「堀川寺ノ内」から、徒歩1分