東福寺の駅から、東大路通を歩くこと4分で、泉涌寺道の参道入口に着く。
そこから泉涌寺の参道を4分ほど歩くと総門で、総門には「御寺 泉涌寺」の門額が掛かる。
総門を潜り、さらに歩くこと8分で、泉涌寺の大門となる。
泉涌寺は、古くから、皇室の香華院(菩提所)として有名であり、天長年間に弘法大師(空海)がこの地に法輪寺を建てた所であり、その後、承元年間(1207~1210)に月輪大師が堂宇を再興し、落成のときに清泉が湧き出したので、泉涌寺と改められたと伝えられる。
四条天皇以来歴代天皇の山稜が多く、皇室にも関係が深く、御寺と呼ばれる由縁である。
泉涌寺の駒札によると、
『真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわりが深く「御寺」として親しまれている。
寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を起こりとし、法輪寺(後に仙遊寺と改称)と名付けられた後、建保6年(1218)には宋(中国)から帰朝した月輪大師(がちりんだいし)・俊芿(しゅんじょう)に寄進され、大伽藍が整えられた。
その際、境内に泉が涌き出たことにちなんで泉涌寺と改められた。
仁治3年(1242)の四条天皇をはじめ、歴代多くの天皇の葬儀が行なわれ、寺内に御陵が営まれており、皇室の御香華院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきた。
広い境内には、運慶の作と伝えられる釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三世仏を安置する仏殿のほか、釈尊の仏牙(歯)を祀る舎利殿、開山堂、御所の建物を移築した御座所、霊明殿など数多くの伽藍が建ち並んでいる。
寺宝として、月輪大師筆の「泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)」、楊貴妃観音堂に安置される、聖観音像など多数の貴重な文化財を所蔵する。
また謡曲「舎利」の舞台としても有名である。
山門の塔頭には七福神が祀られており、毎年、成人の日に行なわれる七福神巡りは、数多くの参拝客で賑わう。』
出典:【泉涌寺の駒札】より
泉涌寺の大門をくぐると、その先は坂道となり境内へと続くのであるが、その坂の下に見えるのが「仏殿」である。
泉涌寺で一番始めに目にする景色なのである。
泉涌寺もまた、創建当初の堂塔伽藍は応仁の乱で焼失してしまい、仏殿は、寛文8年(1668)に、徳川四代将軍家綱によって再建されたものである。
一重もこし付入母屋造り本瓦葺きで、内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架など、禅宗風の様式をもつ建物である。
仏殿には、運慶作といわれる、過去・現在・来世を表わす釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の本尊をを安置する
3月に仏殿で行われる涅槃会には、明誉古澗(めいよこかん)筆になる日本最大の涅槃図が掲げられる。
この涅槃図は江戸時代(享保2年(1717))を代表する涅槃図の一つである。
泉涌寺といえば、「仏殿」とその後ろにある「舎利殿」とが並んで見える眺めである。
舎利殿は、仏殿の背後に建ち仏殿と同じ時期に、京都御所の建物を移築改装したもので、月輪大師(がちりんだいし)・俊芿(しゅんじょう)の弟子、湛海律師が安貞2年(1228)に南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置する。
舎利殿はまた謡曲「舎利」の舞台ともなっており、駒札によると、
『泉湧寺は泉山と号する真言宗泉湧寺派の大本山ですが、古くから皇室の香華院として知られ四条天皇の仁治3年、ここに月輪稜が設けられたのを初めとし、後水尾天皇から仁孝天皇に至るまでの天皇・皇后・親王等25稜5灰塚9御墓の後月輪稜が営まれています。
本尊は釈迦・弥陀・弥勒の三尊ですが、舎利殿には堂内に韋駄天立像があり、謡曲「舎利」では、足疾鬼が、舎利殿に飛び上がり、舎利を奪って虚空に飛び去ったところ、この寺を守護する韋駄天が、これを追いつめ、仏舎利を取りかえすという話になっています。
「太平記」に載せられている説話にもとづいたものですが、泉湧寺の仏舎利が天下に二つとない霊宝として尊崇をあつめてきたことは古書にもしるされているので、これらを素材につくられたのでしょう。』
出典:【泉湧寺と謡曲「舎利」の駒札】より
泉湧寺(京都市東山区泉涌寺山内町27)
京都駅から
▼「D2」乗り場から88・208系統で『泉涌寺道』下車(所要14分)
「泉涌寺道」から、徒歩15分
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