江戸時代の中頃、鴨川の西岸に堤が築かれ、その河原は新地と呼ばれ、芝居小屋が立つことになる。
元禄の頃には7軒の芝居小屋が立つのだが、明治維新を迎える頃には、北と南に1件づつの芝居小屋が残るのみとなり、さらに明治の中頃には「北座」も廃止され、今は「南座」のみが残ることとなる。
今に残る歌舞伎は、慶長8年(1603)に鴨川の河原にて、出雲阿国が「かぶき踊」を披露したのが始まりとされる。
出雲阿国は安土桃山時代の芸人で、「ややこ踊り」を基にして「かぶき踊」を創作したと言われ、これが基となり現代の「歌舞伎」が出来たのだと言われている。
しかし阿国の「かぶき踊」は遊里で踊られ、それが公序良俗に反するとして、江戸幕府により取り締まりの対象となるのだが、宮川町などで「少年歌舞伎」など、男色の踊りとして残り、女役を男が演じることで、今の世に生き残ったのである。
四条大橋の東詰めに南座がある。
大概は正面の入口からの風景を眺めるのだが、鴨川に面した通りに南座の楽屋口があり、その横に「阿国歌舞伎発祥地」の石碑が建っている。
駒札によれば、
『慶長8年(1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露しました。
この碑は昭和28年11月吉例顔見世興行を前に歌舞伎発祥三百五十年を記念して、松竹株式会社により建設されたものであります。我が国が世界に誇る文化財歌舞伎を日本の至宝として末永く後世に伝えたいという願いが込められております。
碑の文字は、元日本芸術院長・高橋誠一郎氏の筆によります。』
出典:【阿国歌舞伎発祥地の碑の駒札】より
江戸時代の中頃、鴨川の西岸に堤が築かれ、その河原は新地と呼ばれ、芝居小屋が立つことになる。
元和年間(1615~24)に、京都所司代の板倉勝重が、四条大橋一帯に七つの小屋(櫓)を公認したのが、歌舞伎小屋の始りとされる。
七つの小屋は、京雀たちの人気を得、大いに流行るのだが、延宝年間(1763~1680)一座が廃座となり、享保年間(1716~36)に、大火により六座すべてが焼失をし再建されるも、一座が廃座をする。
さらに、寛保元年(1741)の大火で、二座が廃座となり、文化・文政年間(1804~1829)に、一座が廃座となり「南座」と「北座」の二座が残り、明治維新を迎えるのだが、しかし、明治26年(1893)に四條通に市電を通すための拡張工事にともない北座が廃止され、南座のみが今に残ることになるのである。
明治26年までは「北座」も存在しており、今はその跡を記す石碑が建っているのみで、その他の五座は四条大橋辺りにあったということは判っていても、その場所は定かではないのである。
北座の駒札には、
『寛文10年(1670)以降、鴨川の西岸に新堤が築かれたことによって、鴨河原の風景は一変した。
河原は「新地」(新造成地の意味)となり、ここに広大な芝居街と茶屋町が出現することになった。
延宝4年(1676)の絵図(祇園社並旅所之図)によれば、この時期すでに東岸の四条通をはさんで、計6軒の芝居小屋が描かれている。
17世紀末の元禄期になると、この芝居小屋は7軒に増加する。18世紀初頭の「京都御役所向大概覚書」によると、四条北側芝居は、井筒屋助之丞、両替屋伝左衛門の所有とあり、さらに南側芝居は、大和屋利兵衛、越後屋新四郎、伊勢屋嘉兵衛の三者が所有者としてあげられていた。
しかし、たびたびの大火で19世紀末には、わずか北側に一軒、南側に一軒となった。その北側の一軒「北座」も、明治26年(1894)四条通拡幅によって消滅した。』
出典:【北座跡(この付近)の駒札】より
出雲阿国像(京都市東山区四条大橋東詰北側)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『四条河原町』下車(所要10分)
「四条河原町」から、徒歩3分
阿国歌舞伎発祥地の碑(京都市東山区四条大橋東詰南側)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『四条河原町』下車(所要10分)
「四条河原町」から、徒歩3分
北座跡(京都市東山区川端通四条上る)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『四条河原町』下車(所要10分)
「四条河原町」から、徒歩4分
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