誓願寺から新京極通を南に2分ほど歩くと、和泉式部の寺として知られる「誠心院」がある。
和泉式部は、天元元年(987)に生まれた、平安時代中期の歌人で、中古三十六歌仙の1人である。父は、越前守・大江雅致(まさむね)、夫は和泉守・橘道貞で、後の女房名は父の官名と夫の任国をあわせ「和泉式部」と呼ばれるようになった。
橘道貞との間に小式部内侍をもうけるが離別し、京に戻ってからは、冷泉天皇の皇子・為尊親王や敦道親王などと浮き名を流すが、いずれの皇子の早世してしまい、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕する。同僚に紫式部や赤染衛門がいて共に平安王朝文学の一時代を築きあげた。
敦道親王との恋の顛末を綴った「和泉式部日記」が有名だが、「和泉式部正集」「『和泉式部続集』などの和歌集もあり。「拾遺和歌集」の勅撰和歌集に246首の和歌が採用され、屈指の王朝歌人といえる。
誠心院の駒札によると、
『華嶽山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部の名で知られている。
寺伝によれば、関白藤原道長が、女の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりといわれている。
当所、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573~91)この地に移された。
和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集におさめられている和歌は247首に及んでいる。本堂は小御堂と呼ばれ、道内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。
境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」に因んで、後に植えられたものである。』
出典:【誠心院の駒札】より
誠心院には
和泉式部が生前愛した「軒端の梅」の根元に「霞たつ 春きたれりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」と詠んだ和泉式部の歌碑が建つ。
娘の小式部内侍に先立たれた和泉式部が、この世の無常を感じ女人往生を求め、ひたすら念仏三昧の日々を送った甲斐あって、二十五菩薩に迎えられ、弥陀の浄土へと往生する。これに因み、女人往生を願う人が、ひたすら念仏を唱え和泉式部が二十五の菩薩と共に迎えに来るという信仰が盛んとなる。
その由来になる二十五菩薩来迎の像が、天正年間に山口甚介により建立されている。
また和泉式部を偲び、式部千願観音が建立され、そのお顔は和泉式部に似ているという。
「役の行者(神変大菩薩)水かけの行者さん」なる石像が建っているが、この像は幕末のどんど焼けで焼失した木造の神変大菩薩を再興したもので、再び焼失しないように、今度は石で造られた。
誠心院には、和泉式部の墓といわれる宝篋印塔がある。
和泉式部の晩年はよく分からないことが多く、その為に和泉式部の墓所は全国に存在する。その真意は伝承の域をでないのだが、その中でも、この誠心院の宝篋印塔は有名である。
宝篋印塔の説明文には、
『「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
(和泉式部 百人一首より:まもなくこの世を去るにつけ、せめてこの世の思い出に、もう一度あなたとの逢瀬をもちたいものだ)
寺伝によると、平安の女流歌人の代表とされる、和泉式部は当誠心院の初代住職と言われている。
「大江山 いく野の道の とほければ まだふみも見ず 天の橋立」
(小式部内侍:百人一首より:大江山を越え、生野への道が遠いので、まだ天の橋立の地を踏んだことはなく、母からの文も見ていない
その歌を母と共に百人一首に収められている、娘小式部内侍は、若くして他界する。
娘に先立たれ、この世のはかなさを思った和泉式部は、当時、女人には出来ぬとされていた、往生のすべてを求め、誓願寺のご本尊のお告げにより、六字名号を念仏し女人の往生を成し遂げる。
その後、和泉式部は六字名号を念仏する人があれば、二十五菩薩と共にお迎えに来てくれるという、謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている宝篋印塔である。
謡曲の一幕に
「わらわがすみかも他所ならず。あの石塔こそすみかにてさむらへ。
不思議やなあの石塔は和泉式部の御墓とこそ聞きつるに、そもすみかとは不審なり」(謡曲誓願寺より)
この石塔は正和2年(1313)に改修、建立されたもので、高さ4m、巾2.4mである。
江戸時代の名所絵図には、石塔と共に、傍らにあった軒端の梅が描かれている。
和泉式部を慕い多くの旅人が参拝したという。』
出典:【和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝篋印塔)の説明文】より
誠心院(京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487)
京都駅から
▼「A2」乗り場から17・205系統で『河原町三条』下車(所要13分)
「河原町三条」から、徒歩8分







コメント