謡曲「誓願寺」は世阿弥の作と云われ、和泉式部と一遍上人とが誓願寺の縁起と霊験を語るという筋立てで、その中で和泉式部が歌舞の菩薩となって現れるという物語である。

01扇塚mid
謡曲「誓願寺」は、
『一遍上人が熊野権現に参籠し、「南無阿弥陀仏決定往生(けつじょうおうじょう)六十万人」の札を弘めよとの霊夢をみる。
都へ上り、念仏の大道場、誓願寺で御札を配っていると、一人の女性が御札の言葉を見て、「六十万人より外は往生できないのでしょうか」と問う。
上人は、「これは霊夢の六字名号一遍法、十界依生(じゅっかいえしょう)一遍体、万行離念一遍証、人中(にんちゅう)上々妙好華の四句の上の字をとったものであり、”南無阿弥陀仏”とさえ唱えれば誰もが必ず往生できる」と説く。
すると女性は有り難がり、「本堂の「誓願寺」の寺額に替え、上人の手で「南無阿弥陀仏」の六字の名号をお書き下さい。これはご本尊阿弥陀如来の御告げです。私はあの石塔に住む者です」と、近くの和泉式部のお墓に姿を消す。
一遍上人が、「南無阿弥陀仏」の名号を書いて本堂に掲げたところ、どこからともなく良い香りがし、花が降り、快い音楽が聞こえ、瑞雲に立たれた阿弥陀如来と二十五菩薩と共に、歌舞の菩薩降となった和泉式部が現れる。
誓願寺が天智天皇の勅願によって創建された縁起が語られ、阿弥陀如来が西方浄土より誓願寺に来迎される模様などを描く荘厳優美な舞が舞われ、最後は菩薩聖衆みな一同に本堂の六字の額に合掌礼拝するのであった。』
                       出典:【謡曲「誓願寺」の駒札】より

02山門mid
誓願寺は飛鳥時代、天智天皇の勅願により創建され、平安時代後期に、法然上人が奈良、興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて浄土宗となり、法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山となっている。
もとは奈良にあったが、鎌倉初期に山城深草に移り、その後、京極西陣に移ったが、天正19年(1591)豊臣秀吉の京都改革で現在の処に移転する。
また誓願寺は清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺としても知られている。
清少納言は、この寺で尼となり、本堂そばに庵を結び、日々、六字名号の念仏を唱え往生をとげる
和泉式部は、娘の小式部内侍に先立たれ、この世の無常を感じ女人往生を求め、ひたすら念仏三昧の日々を送り、二十五菩薩に迎えられ、弥陀の浄土へと往生する。
松の丸殿は、その名を京極竜子といい、若狭守護・武田元明に嫁ぐが、本能寺の変後に明智光秀に味方した夫が秀吉軍討たれてしまい、捕らわれの身となり、その出自と美貌のゆえに秀吉の側室となる。
伏見城の松の丸に住んだことから、「松の丸さま」と呼ばれた。
「西の丸殿」(淀殿)に続き側室の中では高い地位にあり、醍醐の花見のでは、秀吉からの盃の順番をめぐり淀殿と松の丸殿が争っやよいうのは有名な話である。
淀殿と松の丸殿は、淀殿の父・浅井長政と松の丸殿の母が姉弟であったから、二人は従姉妹同士という間柄であった。
その松の丸殿が、誓願寺がこの地に移るのに、和泉式部の女人往生に思いを馳せ、誓願寺再興に尽力したのである。

03本堂mid
誓願寺の駒札には、
『天智天皇6年(667)天皇の勅願により創建された。
本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国の作であった。
もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川(こかわ:現・上京区元誓願寺通小川西入)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。
その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ケ寺の山内寺院を擁していた。
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。
また源信僧都は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。
浄土宗元祖の法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になったという。
現在は、法然上人の高弟・西山(せいざん)上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。』
                           出典:【誓願寺の駒札】より

04道しるべmid
テレビドラマの「京都迷宮案内」で、誓願寺の境内に「迷子のみちしるべ」という石碑があり、そこに2冊のノートが置かれ、右に「教ゆる方」左に「さがす方」と、探すものと探される者とがこのノートに思いを綴り、不明の父親に結婚を知らせるという内容なのだが、その「迷子のみちしるべ」が境内にあり2冊のノートが置かれているものと思っていたのだが・・・
現実は、誓願寺山門の左に建っていて、TVドラマのように、迷子になったものが、この「迷子のみちしるべ」で心をかよわして元に戻るというようなことがあろうはずもなく、その昔の名残としてここに建っていた。
石柱は明治10年(1877)に建てられ、正面に「迷子みちしるべ」、右に「教しゆる方」左に「さがす方」と刻まれている。

誓願寺(京都市中京区新京極桜之町453(新京極通六角下る))
京都駅から
▼「A2」乗り場から17・205系統で『河原町三条』下車(所要13分)
「河原町三条」から、徒歩5分