平敦盛を討ち取った熊谷直実はそれ以降、深く思うところがあり、出家への思いが強くなるのである。
熊谷直実は源平合戦の寿永3年(1184)の「一ノ谷の戦」で、平敦盛に出会い沖の船に向かっている敦盛を呼び戻し、勝負の末にその首を切り落とした源氏方の武士である。
明治39年に作られた「青葉の笛」という歌に、
「一の谷の軍(いくさ)破れ討たれし平家の公達あわれ 暁寒き須磨の嵐に聞こえしはこれか青葉の笛」と歌われている平家の公達が、平敦盛、若干17才、この時に腰にだずさえていたのが「名笛小枝」の笛であり、これを歌ったのが青葉の笛である。
このことがあり、世に無常を感じた熊谷直実は京都黒谷(金戒光明寺)の法然上人を訪ね出家することになるのである。
その時に、方丈裏の池で鎧を洗い、松の木に掛けて出家をしたといわれる「鎧掛けの松」がある。
初代の松は枯れて、今の松は二代目である。
金戒光明寺は駒札によれば、
『紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷(くろだに)の名で親しまれている。
寺伝によれば、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。
また、正長元年(1428)、後小松天皇より、上人が浄土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。
御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(くまがいれんせいぼう:直實(なおざね))と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒(ふじむらようけん)、箏曲開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)などの墓がある。』
出典:【金戒光明寺の駒札】より
「敦盛」といえば小田信長が「人間五十年、下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と「敦盛」の一節を舞って、今川の大軍に立ち向かう。
桶狭間の今川本陣に向かうこの戦は、手勢僅か2千騎でとても勝つ戦ではなく、死中に活などではなく自棄のやんぱちで投げた石が偶々当たったようなもので、信長はこれ以降二度とこんな無謀な戦はやっていないことをみても、「敦盛」を舞って出陣したということが、いかに勝ち目のない戦であったかが見てとれる。
しかし、運はつきを呼び桶狭間で今川義元の首を刎ね、天下統一への道を歩みだすことになるのである。
「敦盛」の題目は、能と幸若舞で演じられており、信長の舞ったのは幸若舞の「敦盛」の一節である。
一ノ谷で平敦盛が討たれ、討った熊谷直実が出家するという物語で展開し、直実が出家し法力房蓮生(ほうりきぼう れんせい)となって世を儚む中に、
『思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
とあり、信長はその一節を歌い舞ったのである。
信長もまた、明智光秀の謀反により人生五十年を前にして命を落とすのである。
金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で『東天王町』下車(所要23分)
「東天王町」から、徒歩15分
建勲神社(京都市北区紫野北舟岡町49)
京都駅から
▼「A3」乗り場から206系統、または「B3」乗り場から205系統で『建勲神社前』下車(所要46~41分)
「建勲神社前」から、徒歩9分
コメント