五条大橋の「扇塚」から平家の公達・平敦盛へとつながってゆくのだが・・・
写真1
扇型の石碑が敦盛の悲話を伝えるのは、寿永3年(1184)一ノ谷の戦いで、平家の公達・平敦盛が源氏の熊谷直実に討たれたことに始まる。
一ノ谷の戦に破れ沖の船に逃げ行く中に、練貫(ねりぬき)に鶴縫うたる直垂(ひたたれ)に萌葱匂(もよぎにほい)の鎧着て、鍬形打ったる甲の緒をしめ、金作り(こがねつくり)の太刀を帯(は)き、廿四さいたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓持ち、連銭蘆毛(れんぜんあしげ)なる馬にに、金覆輪(きんぷきりん)の鞍置いて乗った者一騎を、熊谷直実が「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。まさなうも敵に後ろを見せ給うものかな。返させ給へ、返させ給へ」と呼び止める。
敦盛がとって返し波打ち際から上がろうとする処を、直実が馬から組み落とし首を取ろうと甲を取ると、わが子と同じ位の16、7の美少年であった。
直実は、その人物を助けようと「そもそもいかなる人にて渡らせ給ひふやらん。名のらせ給へ。助け参らせん」と云うが、敦盛は「さては汝が為にはよい敵ぞ。名のらずとも首を取って人に問へ。見知らうずるぞ」と答え、直実は泣く泣く首を刎ねるのである。
直実は首を包まんと鎧直垂を解くと、綿の袋に入った笛が腰にさされていた。
直実は「あないとほし。この暁城の内にて、管弦し給ひつるは、この人々にておはしけり」と、大将軍(源義経)に見せると、見る者すべて涙を流したという。
後に、直実はこの少年が平敦盛だと知り、世の無常を悟り出家することになる。
笛は、祖父忠盛が鳥羽院より下賜され経盛が相伝したしたものを、熱盛が持っていたものであり、その名を小枝(さえだ:別名を青葉ともいう)という。
その青葉の笛にちなんで、明治39年(1906)尋常小学校唱歌として「敦盛と忠度」が4年生の教科書に載っている。
昭和2年(1927)の教科書に再掲載され「青葉の笛」という題で今に知られている。
『一の谷の 軍(いくさ)破れ討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
更くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ 今わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌』
と、1番は敦盛を2番は同じく一ノ谷の戦で討ち死にした平忠度のことを歌っている。
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