「京の五条の橋の上・・・」と歌われた五条大橋。
五条大橋は国道1号線で、その先は東京へと続いている。
五条の橋は、かつては現在の松原通に架かっていたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉が下流の六条坊門通に橋を移し、その橋を「五条橋」と名付けたことから、通りの名も「五条通」と改められた。
江戸時代に高瀬川が開削され、正保2年(1645)に石造りの橋脚となり、青銅の擬宝珠が取り付けられた。
高瀬川が出来たことにより、三条大橋が高瀬川を渡る三条小橋を設けたのだが、五条大橋は高瀬川と鴨川を一気に渡る長大な橋を架けたのである。
昭和10年(1935)6月に起った鴨川大洪水により、上流の団栗橋・松原橋など多くの橋と共に流失し、現在の橋は旧い形式を尊重し、昭和34年(1959)に架け替えられた鉄筋コンクリートの橋で、長さ69m、幅36m、橋の高欄は石造となったが、擬宝珠はもとの形のものが取り付けられ、中に正保2年の文字がみえるものがある。
「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる」と尋常小学校唱歌「牛若丸」(1911)に歌われた五条大橋、
その五条大橋の西の袂に、京人形を模した、牛若と弁慶の像が道路中央のグリーンベルトの中に建っている。
京の五条の橋の上で大の男の弁慶と牛若丸が、千本目の刀を廻り戦ったという橋に因んでここに建っているのだが、現在の五条大橋は秀吉が架けたもので牛若丸や弁慶の時代にはこの橋は架かってなく、その橋は一つ北によった松原通に架かる、松原橋だったのである。
80系統の市バスが五条大橋を超えようとしている。行先は、祇園経由の四条河原町、橋を渡り、五条坂で左に折れ、祇園でまた左に曲がり、四条大橋を西に渡り終点の四条河原町となる、均一料金のバスである。
太秦天神川駅から西大路で五条通に入り、東に進み、今調度、五条大橋を越えようとしているところである。
この系統のバスには乗る機会はまれで、80という番号を付けたバスを見るのは少ないのである。
牛若と弁慶の京人形の像を見ながら鴨川に向かうと、五条大橋の袂に「扇塚」が建っている。
この地は、時宗御影堂があった処で、平安の昔、ここの尼僧によって始めて扇が作られた場所である。
爾来この地には扇師が集まり、永く扇の産地となり、ここで作る御影堂扇は最上のものとして有名であった。
この扇塚は、昭和35年(1960)に扇発祥の地を記念して建てられたものである。
扇塚の記によると、
『扇は平安時代の初期、この地に初めてつくられたものである。
ここ五條大橋の畔は時宗御影堂の遺趾であり、平敦盛没後その室が、本寺祐寛上人によつて得度し蓮華院尼と称し寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている。
この由緒により扇工この地に集り、永く扇の名産地として広く海外にまでも宣伝されるように至った。
いまこの由来を記してこれを顕彰する。』
出典:【扇塚の記】より
扇塚(京都市下京区下材木町五条通)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統統で『河原町五条』下車(所要10分)
「河原町五条」から、鴨川に向かい徒歩1分
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