下鴨神社は平安遷都以前からこの地に住んでいた賀茂氏の氏神で、京都最古の神社である。
境内の南半分は糺ノ森と呼ばれる静寂で緑の多い広大な森となっている。
二の鳥居をくぐると楼門があり、その先に本殿、中門、舞殿などがあり、東側には御手洗池がある。

01楼門mid
下鴨神社の名は、鴨川の下流に祀られていることから呼ばれる通称で、正式には「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と云う。
山城国一ノ宮で起源は古く、日本書紀神武天皇2年(紀元前658年頃)の条にこの神社のことが記されている。
その昔、この地を治めた賀茂氏が創祀したと云われ、平安以前から存在する京都で最も古い神社である。
上賀茂神社とともに、平安京のできたころには、皇居の鎮護として崇敬されていた。
祭神は、東御本殿に「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)、西御本殿に「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと:玉依媛の父)で、玉依媛が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢により身ごもり、上賀茂神社の祭神である「別雷神」を生んだという。
その母にあたるところから御祖(みおや)と呼ばれ、この神社が「賀茂御祖神社」と云われるようになったのである。

02本殿mid
駒札には、
『太古、この地を占有していた賀茂氏が創祀し、平安時代以前から存在するわが国最古の神社の一つである。
祭神として賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)と玉依姫命を祀ることから、正しくは賀茂御祖(かもみおや)神社と称される。
玉依姫命は賀茂氏の祖神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗り(にぬり)の矢によって身ごもり、別雷神を生む。
平安遷都(794)後は王城の守護神として朝廷をはじめ公家や武家の崇敬を集め、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮等の制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれて、崇敬をあつめた。
弘仁(こうにん)元年(810)以降、約四百年にわたり、斎院(斎王の御所)が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉祀した。
糺の森は、約12万4千平方メートル(約3万6千坪)で古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されている。
江戸末期の文久3年(1863)に造替された東本殿と西本殿が国宝に指定されているほか、殿舎五十三棟が重要文化財に指定され、平成6年(1994)世界文化遺産に登録された。
毎年5月15日には、京都三大祭の一つ葵祭が行われ、御所から当神社を経て上賀茂神社まで向かう行列が、都大路に王朝絵巻を繰広げる。
また正月三日の流鏑馬神事や七月の土曜の丑の日に行われる御手洗祭などもよくしれれている。』
                出典:【賀茂御祖神社(下鴨神社)新旧の駒札】より

03屋根mid
下鴨神社本殿の様式が「流造」である。流造とは神明造が発展したもので、
伊勢神宮に代表される神明造は、最も古い神社様式で、奥行より幅が大きく掘立柱・切妻造・平入の構造となっている。
反りのない屋根で左右対称の直線的な外観が特徴となっている。

平入り:平とは、切妻屋根(家の中心から、山型に左右へ屋根の斜面がある)の流れ方向
    のことで、切妻屋根の斜面側に出入口がある建物。 
妻入り:切妻屋根の棟と直角な三角形になる面を「妻(つま)」といい、その妻の側に出
    入口がある建物。

04流造mid
下鴨神社の本殿は、文久3年(1863)に造替され、三間社流造・桧皮葺・東西二棟からなり、いずれも国宝で、東殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)、西殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られている。
下鴨神社本殿の流造は、神明造を基本とし平入の社殿の屋根(庇)が前方に伸び、前方後方の屋根がなだらかな曲線を描いているのが特徴的で、日本の神社ではこの様式の社殿が多くを占めている。

下鴨神社(京都市左京区下鴨泉川町59)
京都駅から
▼「A2」乗り場か5・205系統で『新葵橋(または下鴨神社前)』下車(所要28分)
「新葵橋」から、糺の森を抜け徒歩11分