鷹峯は徳川家康が本阿弥光悦に下賜された土地で、光悦一族がここに移り住み一大芸術村となった所である。
本阿弥光悦は、江戸時代初期の書家・陶芸家で茶の湯など諸芸全般に関わりを持ち、特に書は近衛信尹・松花堂昭乗と並び、寛永の三筆と称されるほどであった。
光悦は、相剣(そうけん:鑑定)・磨礪(まれい:研磨)・浄拭(じょうしょく:艶出)
を家業とする家の長男として生まれるが、それよりも書画・茶道・陶芸・蒔絵・作庭など諸芸全般に秀でており、時代は豪華絢爛の桃山文化から質実剛健を旨とする徳川文化へ移る転換期であった。
後水尾天皇など朝廷ともつながり、この時期の文化形成に深く関わりを持った人物であった。
元和元年(1615)、58才の時に徳川家康より、鷹ケ峰三山を一望するこの地を与えられたのだが、この地はお土居の外、いわゆる洛外であり、辻斬り・野盗・追剥ぎなどの出没する土地であったようである。
ここに、光悦は工芸に携わる一族郎党や工芸家を引き連れて移り住み、ここに一大工芸村を造りあげたのである。
その一角に先祖代々供養の為に位牌堂を設けたが、光悦没後に本法寺の日慈上人を開山とし、寺としたのが光悦寺の始まりである。
光悦寺の駒札によると、
『大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。
当地は、元和元年(1615)徳川家康によりこの地を与えられた本阿弥光悦が、一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。
当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。』
出典:【光悦寺の駒札】より
本悦寺には七つの茶室が現存するが、そのいずれも大正時代以降に再建されたものであり、大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の茶室がある。
七つの茶席の一つ「大虚庵」は、光悦翁60才の終焉の場所といわれる。
大虚庵は光悦翁の没後、廃滅したが大正4年(1915)に再興をされる。
大虚庵は、切妻造杮葺で前面に附廂があり、入口にはには板戸二本引きの、にじり口、内部は五帖台目で床の内は土天井とし隅を塗廻として昔の大虚庵茶室の名残を残している。
参照:【光悦寺縁起 光悦寺の茶席】より
大虚庵の前には垣根があるが、光悦垣とも臥牛垣とも呼ばれ、上部に竹を細かく割って束にしたものを、半月状に緩く曲線を描くように取り付け、その下に粗く割った竹を菱形状に組んでゆくという竹垣であり、本阿弥光悦が創り出したものと云われている。
本阿弥光瑳は、光悦の養子なのだが、刀剣に関する技は当代随一といわれたほどであった。光悦とともに鷹ケ峰に移り住むが、60才で光悦と同じ年に没している。
光甫は、光瑳を父にして光悦の孫にあたる。
父より刀剣に関する技術を叩き込まれ、刀剣鑑定・研磨のみならず書画・陶芸にも優れ、茶や香などの道にも精通をする。
父子ならんで光悦寺に眠っている。その横には、本阿弥家一族の墓所もある。
光悦寺からは西南の方角に、鷹峯三山が眺まれる。
鷹ケ峰の地は、金閣のある衣笠の山々が北に伸びて北山と接する辺りで、京七口の一つ長坂口から丹波・若狭へと続く鯖街道の入口にあたる所である。
紅葉や桜の季節以外は訪れる人も少なく、小鳥のさえずりを聞きながら静かに散策が出来るのである。
その鷹ケ峰にそびえるのが、東から鷹峯(鷹ケ峰:たかがみね)、鷲峯(鷲ケ峰:わしがみね)、天峯(天ケ峰:てんがみね)と呼ばれる鷹峯三山である。
その姿は昔より多くの人に親しまれ、花札の芒(すすき:俗に坊主ともいう)の絵柄は、この鷹峯の山を表したものだという。
ちなみに鷹峯三山は、大文字山から北方につながっており、山自体は金閣のある衣笠の地にある。
光悦寺(京都市北区鷹峯光悦町29)
京都駅から北大路バスターミナルへ
北大路バスターミナルから
▼「青のりば・F」乗り場から北1系統で『源光庵前』下車(所要16分)
「源光庵前」から、徒歩3分
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