宮川町と祇園の花街に挟まれた、いかにも京都の寺というのが「建仁寺」。栄西禅師が開基として、京都で最初に開いた禅寺である。
14の塔頭が回りにある中、勅使門・三門・法堂・方丈が一直線に並び、いかにも禅寺らしいたたずまいである。
建仁寺は、建仁2年(1202)に、鎌倉幕府二代将軍の源頼家が、宋から帰った栄西(えいさい)禅師を開基として、宋の百丈山にのっとって創建したものである。
京都最初の禅寺で、室町時代には五山文学の中心として知られ盛大を極めたが、その後、幾たびか火災にあい荒廃するが、天正年間(1573~92)に安国寺恵瓊によって再興された。現在の建物は再興後のものである。
(五山文学とは、13世紀後半から16世紀に亘り、京都五山・鎌倉五山の禅林を中心に、禅僧の間で学ばれた漢文学である。
京都五山は、「南禅寺」を別格として、第一位から「天龍寺」「相国寺」「建仁寺」「東福寺」「万寿寺」の五つの禅寺をいう。
鎌倉五山は、「建長寺」を第一位とし「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」と続く五山である。)
駒札には、
『東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山である。
建仁2年(1202)、我国の臨済宗の開祖である明菴栄西(みんなんえいさい)禅師により創建され、寺名は年号をとってこのように名付けられた。
以後、正嘉2年(1258)に円爾弁円(えんにべんえん)、正元元年(1259)には、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には、京都五山の第三位を占めるに至った。
勅使門は、俗に「矢の根門」と呼ばれ、切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築で、方丈は、銅板葺、単層入母屋造、慶長4年(1599)に、安芸(広島県)の安国寺から移建した室町時代後期の大建築である。
寺宝としては、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表作、紙本金地着色風神雷神図、海北友松(かいほうゆうしょう)の紙本墨画竹林七賢図など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。
また、毎年4月に方丈で行われる「四頭の礼(よつがしらのれい)」は、禅宗寺院の茶礼の古態を今に伝えている。』
出典:【建仁寺の駒札】より
方丈は、室町時代に足利尊氏が建てた安芸国の安国寺の方丈を、慶長4年(1599)安国寺恵瓊(えけい)が移したものだという。
杮葺の屋根で、棟高く室町末期における住宅建築の遺構として特色がある。
方丈の茶席東陽坊は、天正15年(1587)豊臣秀吉が北野大茶会のとき利休の弟子東陽坊長盛が造ったものといわれる。
また前庭に枯山水様式の「大雄苑(だいおうえん)」を有する。
方丈には、桃山時代の画家である海北友松の水墨障壁画、「竹林七賢図」16面、「琴棋書画図」10面、「雲龍図」8面、「山水図」8面、「花鳥図」8面が襖に描かれていた。昭和初期の台風で方丈が倒壊したのだが、たまたま襖を外していたことから難を逃れ、現在は襖から掛軸に変えて、京都国立博物館に保管されている。
建仁寺が有する文化財のなかでも、最も有名なものが、俵屋宗達の筆になる「風神・雷神」の図である。
金地の二曲一双の屏風に、風神と雷神の姿が描かれたものである。
それぞれが、154.5×169.8cmの大きさで、風神と雷神が片側に寄せられて、その空間を広くとり、風の神と雷の神との動きを力強くに表現をしているのである。
俵屋宗達といえば「風神・雷神図」であり、宗達を知らずとも、この絵はよく知られている。
今は、京都国立博物館に保管されており、建仁寺では複製を見ることが出来る。
建仁寺(京都市東山区大和大路通四条下る小松町)
京都駅から
▼「D2」乗り場から88・206系統で『清水道』下車(所要16分)
「清水道」から、八坂通を西に徒歩7分
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