京で室町幕府の足利家に関わる寺は、金閣寺や銀閣寺が知られているのだが、等持院もまた足利家に関わりのある寺なのである。
嵐電北野線で「北野白梅町」から一駅目が「等持院」その次が「龍安寺」の駅である。
等持院の駅は、2面2線のホームを持つ地上駅である。
ここから龍安寺の駅までを複線化する計画があったようだが、実現していない。
「龍安寺」から「等持院」までは200mほどの距離しかなく、電車が動き出したと思ったら、もうブレーキがかかっている。
もし乗り遅れても、電車を走って追いかければ等持院の駅で乗ることが出来ると思われるほどの速度で走ってゆくのである。
等持院の駅から5分ほど歩くと「等持院」である。
京都十刹の一つで、もと仁和寺の一院であったが、足利尊氏が夢窓国師を開山にして、足利氏の菩提寺として等持寺を開いた。
2年後に北等持寺を衣笠山のふもとに建て、尊氏の死後に菩提寺となり、等持院と改められた。
応仁の乱で等持寺は焼失してしまい姿を消す。
現在の建物は文政年間(1818~30)に再建されたもので、方丈は妙心寺の塔頭・海福院を移建したものである。
霊光殿には足利尊氏以下十二代の木像が並んでいる。
幕末のころに、浪士が尊氏以下三代の首を斬って三条河原にさらしたという事件が起こっている。
寺域は衣笠山を背景とした景勝地にあるが、この山は絹笠山・蓋山・絹掛山などとも書き、宇多法皇が仁和寺にいたとき、この山に白絹を張って雪見をされたことから、この名が付いたという。
駒札によると、
『万年山と号する臨済宗天龍寺派の寺院である。
もと仁和寺の一院であったが、南北朝時代の暦応4年(1341)に足利尊氏が夢窓国師を開山として中興し、足利氏の菩提寺である中京区三条高倉の等持寺の別院とした。
延文3年(1358)に尊氏がこの寺に葬られると、その法名をとって等持院と改められ、その後、本寺である等持寺を統合した。
足利氏の菩提所にふさわしく、堂塔伽藍は衣笠山麓に威容を誇ったが、長禄年間(1457~60)以来、しばしば火災にあって荒廃した。現在の建物は江戸・文政年間(1818~30)の建立である。
方丈は、元和2年(1616)福島正則が建立した妙心寺海福院の方丈を移建したものと伝えられ、霊光殿には尊氏の念持仏といわれる利運地蔵像を安置し、左右壇上には足利各将軍と徳川家康の木像を安置する。
境内には尊氏の墓と伝える高さ5尺の宝筐印塔のほか、夢窓国師作庭といわれる東の心字池と芙蓉池を中心とした池泉回遊式庭園、足利義政好みと伝えられる茶室清蓮亭などがある。』
出典:【等持院の駒札】より
何故「等持院」が足利将軍ゆかりの寺かというと、等持院霊光殿の堂内左側に、初代・尊氏、二代・義詮、三代・義満、四代・義持、六代・義教、七代・義勝、八代・義政の初代から八代までの木像が安置されているのだが、五代・義量の像がない。
右側には、九代・義尚、十代・義稙、十一代・義澄、十二代・義晴、十三代・義輝、十五代・義昭と九代から十五代までの木像が並ぶ
ここにも十四代・義栄の像がないのである。
何故、五代と十四代将軍の木像がないのだろうか。
十四代将軍の義栄は、阿波国に生まれ将軍職を継ぐのだが、入洛する前に病没をし、天皇にも拝謁しないことは将軍として認められないとされ、ここにその木像はないのである。
では義昭は十四代将軍かというと、将軍職を重複した人物がいる。
それが義稙で十代と十二代と2回将軍となっていて、そうなると義晴が十三代となり、十四代・義輝、十五代・義昭と、通説とおりの年代となる。
一方、五代・義量の木像がないことも又、将軍として認められていなかったのではとの疑問が湧き、足利将軍の数え方は、十四代か十五代かはたまた十六代か、疑問の湧くところである。
足利将軍三代の木像の首が鴨川に晒されたことがある。
時は幕末の、文久3年(1863)2月、等持院にあった「尊氏・義詮・義満」の木像の首と位牌が盗まれて、「逆賊足利尊氏・同義詮・同義満名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たるによって、先ずその醜像天誅を加えるものなり」の罪状文とともに、三条大橋の下流、鴨川の河原に晒されたのである。
あたかも徳川十四代将軍・家茂の上洛前であり、浪士隊(後の新選組)の入洛前の、京の町に血生臭い風が吹こうとする前の出来事であった。
この事件を「足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)」という。
等持院(京都市北区等持院北町63)
京都駅から
▼「B2」乗り場から50系統で『立命館大学前』下車(所要43分)
「立命館大学前」から、徒歩10分
▼「D3」乗り場から26系統で『等持院南町』下車(所要39分)
「等持院南町」から、徒歩8分
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