河原町三条下ルの一筋目、通称、龍馬通りを東に入ると、龍馬が京で定宿としていた酢屋という店にたどり着く。
酢屋という屋号からは、お酢を扱っているような感じがするのだが、創業は享保6年(1721)で現在まで280年続く、材木商なのである。
酢屋は代々、嘉兵衛の名を名乗り、幕末の当主六代目嘉兵衛は材木業を営む一方で、高瀬川の水運を利用した運送業も営んでいた。
酢屋の前には高瀬川の舟入があり、荷の積み下ろしで賑わっていたと云う。
当時の高瀬川沿いには、土佐藩や彦根藩、加賀藩などの藩邸が建ち、また伏見を経て大坂にも格好の地であった為に、主人、嘉兵衛の理解と援助により、龍馬はこの酢屋を京都での住いとしたのである。
慶応3年(1867)6月には、姉の乙女に対し「酢屋」に住んでいる旨を手紙に記している。
また海援隊の京都本部をここに置き、長岡謙吉、岡本健三郎、菅野覚兵衛(土佐)、陸奥宗光(紀伊)、白峰駿馬(越後)など多くの隊士が出入りしていたと云う。
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された後の、慶応3年12月に起きた「天満屋事件」でもこの酢屋の2階に海援隊・陸援隊の隊士が集り事件を起こしている。
天満屋事件とは、龍馬と慎太郎を暗殺指示したのは、いろは丸の沈没の時に多額の賠償金を支払った紀州藩だとの噂を聞いた陸奥陽之助が、紀州藩公用人の三浦休太郎を討つべく画策をする。
それを察知した紀州藩が会津藩を通し、新選組に警護を依頼する。
慶応3年(1868)12月7日に海援隊・/陸援隊士ら総勢16名が、三浦休太郎と護衛の新選組が、油小路正面にあった天満屋の2階で飲んでいるところに襲いかかり、乱闘となった事件である。
この事件で三浦休太郎は頬頤(ほほあご)を斬られるが命に別状なく、襲った方で、中井庄五郎が斬死にし、新選組では宮川信吉と舟津釜太郎が亡くなっている。
龍馬はこの酢屋では、坂本龍馬ではなく本家の苗字である才谷をとって、才谷梅次郎となのっていて、酢屋の人達からは「才谷はん」と呼ばれていたという。
二階の表西側の部屋に住んでいたといい、品格子の間から龍馬は、向かいの五之舟入にむけてピストルを撃っていたという、現在ではすぐに警察が飛んできて捕まるようなことをしていたと云う。
その舟入の跡が五之舟入で、2009年11月に、その跡である南大黒橋の東詰北側に石碑が建てられたのである。
近江屋で難に遭う寸前までここに住んでいたといい、もし慶応3年をここで過ごしていたら龍馬も慎太郎も悲運には遭わずにすんだのではないだろうかと、「歴史のif」を想像してみるのである。
酢屋(京都市中京区河原町三条下ル龍馬通)
京都駅から
▼「A2」乗り場から4・17・205系統で『河原町三条』下車(所要14~17分)
「河原町三条」から、徒歩3分
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