裏松固禅は、江戸時代中期から後期にかけての公家であり「大内裏図考証」を著した人物である。

01中立売御門mid
裏松固禅は、天文元年(1736)に生まれ、11才の時にウ荒松家の養子となる。
宝暦事件(江戸時代中期に尊皇論者が弾圧された事件)の首謀者竹内敬持(たかもち)と親交があったことから、徳川幕府から永久蟄居処分を受け出家させられる。
その蟄居生活の中で、平安京を考査し「大内裏図考証」を書き上げるのである。
天明8年(1788)の大火により内裏が焼失し再建する際に参考としたのが「大内裏図考証」であった。

02紫宸殿mid
通常公開で貰った貰ったパンフレットに書かれた京都御所の説明文が、御所の成り立ちを良く表しているので、それを参照する。
『京都御所は、明治維新まで天皇のお住まい(古くは内裏という)であり、桓武天皇が奈良の平城京より長岡京(京都府)を経て、延暦13年(794)に平安京に都を移されたのが始まりである。
平安京はは南北5.2Km、東西4.5Kmの方形で、中央の朱雀大路(現在の千本通)により左京と右京に分けられ、大小の道で碁盤の目のように区画されていた。
平安京の大内裏(国家的儀式を行う施設や様々な役所があった区画)の中程に内裏があった。
内裏は火災に遭うと、貴族の邸宅などが一時的に仮の内裏とされた。これを里内裏という。
現在の京都御所の場所は土御門東洞院殿といわれた里内裏の一つで、元弘元年(1331)に光厳(こうごん)天皇がここで即位をされて以降、明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの500年間、天皇のお住まいとして使用された。
この間も幾度となく火災に遭い、その都度再建が行われ、当所は現在の敷地の半分以下であったが、豊臣秀吉や徳川幕府による造営により敷地は次第に拡張された。
建築様式や全体構成は時代と共に変化をしていったが、店名8年(1788)の焼失による再建時には、江戸幕府の老中松平定信を総奉行とし、有職故実家(ゆうそくこじつか)の裏松固禅(光世)らの考証により、平安の古制に則った紫宸殿や清涼殿、その他の御殿が寛政2年(1790)に建造された。
しかしこの内裏も嘉永7年(1854)に焼失し、翌、安政2年(1855)には寛政時の内裏がほぼそのままの形で再建された。
これが現在の京都御所である。この御所は、孝明天皇及び明治天皇の日々のご生活や数々の宮中の年中行事に加え、幕末期の王政復古の大号令、小御所会議、御箇条の御誓文の発布、明治・大正・昭和の天皇の即位礼が行われた歴史的な舞台となった場所でもある。
現在の京都御所は築地塀に囲まれた南北450m、東西250mの方形で、面積は11万㎡である。
敷地内では、古代以来の二本宮殿建築の歴史と文化が見られると同時に、回遊式庭園の御池庭、献上の石や灯籠を配した御内庭など、木々や花など季節の変化も楽しめるものとなっている。』
                      出典:【京都御所のパンフレット】より

京都御所(京都市上京区京都御苑3)
京都駅から
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「今出川」から、徒歩5分