京都大学の校舎を左右にみて、東一条通を東に行き当たると神楽岡に鎮座する吉田神社の一の鳥居がある。

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吉田神社は、清和天皇の貞観元年(859)に中納言藤原山陰が春日の四神を迎え、平安京の守護神として祀ったのが起源であるという。
吉田神社の社務は、昔から卜部(うらべ)氏すなわち吉田家が神祇官として執り行っていたが、室町時代の文明年間(1469~86)に吉田兼倶が出て、唯一神道(吉田神道)を唱え、吉田流神道の総家となり、以降明治に至るまで神道界に大きな権威を誇った。
神道とは、この世の森羅万象に神が宿ると考え、天神地祗、祖先神などの神々を崇拝する日本古来の宗教であると定義されているが、Wikipediaのなかで、仏教と比較した解説があり、これが神道の性格をよく表しているのでそれを引用する。
「神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。」

02吉田神社mid
駒札には、
『祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いはいぬしのみこと)・天之子八根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神を祀る。
清和天皇の貞観(じょうがん)元年(859)4月、古くからの霊域であったこの吉田山に、中納言藤原山蔭卿が平安京の鎮守神として春日の四神を勧請し、以来、朝廷の信仰も厚く、正暦(しょうりゃく)2年(991)には、朝廷から特別の奉幣を受ける二十二の社「二十二社」の前身である十九社奉幣に列する。
次いで、室町時代の中頃、神官吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を大成し、山上に斎場所太元宮(だいげんぐう)を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威を誇った。
大元宮(重要文化財)には全国の神々が祀られ、ここに参ると全国の神社に参ったのと同じ効験があると信仰されている。
本殿は慶安年間(1648~1651)の建築で、朱塗春日造りである。
境内には、大元宮のほか、地域の氏神・雷除神として有名な神楽岡(かぐらおか)社、吉田兼倶を祀る神竜(しんりゅう)社、料理の神を祀る山蔭神社、お菓子の神を祀る菓祖神社など多彩な末社・摂社が多い。
毎年節分の日をを中心に三日間行なわれる節分祭は、疫神祭(えきじんさい)・追儺式(ついなしき)・火炉祭(かろさい)の三部に分れ、追儺式は「鬼やらい」として特に有名で、毎年多数の参詣者で賑う。』
                          出典:【吉田神社の駒札】より

03大元宮(1)mid
吉田神社のお山を一巡りし、宗忠神社から如堂へと続く階段を下りずに、京都大学のある西側の参道に向い、そこを下ると、吉田兼俱が子恩流した吉田神社の末社にあたる「斎場所大元宮」がある。
大元宮は、神仏習合、陰陽五行の諸説を参酌した神道家の理想をそのまま建築にした、八角形の本殿に六角形の祈祷書を付けた作りは極めて珍しく、柱や梁は朱塗、屋根は入母屋造茅葺で、慶長6年(1601)日光廟建築の甲良宗弘によって建てられたと云う。
昔から吉田神社禊所として有名で、節分の折には大勢の人々で大変な賑わいをみせるのだが、それ以外ではひっそりとした大元宮である。
ここに祀られる神々は八百万神であり、この神社に参ると日本全国の神に詣でたことになると云い、毎月1日の日には扉が開かれて八百万神に詣でることが出来るのである。

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『天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみ やおよろづのかみ)/内院鎮座神 東神明社 祭神 天照皇大神/西神明社  祭神 豊宇氣比売神/東西諸神社 祭神 式内神三千百三十二座(全国の神)で、昔左京室町に在った社を吉田兼倶が後土御門天皇文明16年(1484)に現地に造営、同年11月24日奉請の上遷座し、吉田神道の根元殿堂として道を説き教を設けて神祇道の振興に多大の貢献をしたのである。
また、後陽成天皇天正18年(1590)勅によりて八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見奉仕して鎮魂祭を行い、慶長14年(1609)更に勅を受けて神祇官代として伊勢例幣使の儀礼を修め、明治4年迄継続したが翌5年八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座した。
彼の有名な宗源宣旨並に裁許状を発行し神職界の宗家と仰がれ神道の中心地であった。毎年節分には特殊神事が行われ厄除祈願の参拝者群集し一般の崇敬極めて篤い社である。』
                        出典:【斎場所大元宮の由緒】より

04幽斎桜mid
その境内には「幽斎桜」なるものがある。
一重彼岸枝垂れ桜なのだが、細川幽斎(1534~1610)が丹後田辺の城主となり、公家の中院通勝が丹後に流された折り、これを慰める為に、京の吉田山より桜を移植したと伝えられ、丹後吉田の瑠璃寺にそれが残っている。
その桜を吉田神社創建1150周年にあたり、ここに植えられその名も「幽斎桜」と名付けられ、毎年春を待っているのである。
ちなみに長男の忠興は関ヶ原では東軍につき、その妻の玉(明智光秀の娘)は細川ガラシャとして西軍に屋敷を囲まれた時、キリスト教に順じ自ら自害出来ず、家臣により自害をしている。
末裔には、総理大臣になった細川護煕氏がいる。
                       出典:【幽斎桜の由緒 駒札】より

吉田神社(斎場所大元宮:京都市左京区吉田神楽岡町30)
京都駅から、
▼「D2」乗り場から206系統で『京大正門前』下車(所要32分)
「京大正門前」から、東山東一条通を東に徒歩5分