京都には三つの「蜘蛛塚」と呼ばれる所がある。

01土蜘蛛塚mid
ひとつは、北野天満宮の東向観音寺で、謡曲などで有名な「土蜘蛛の灯籠」がある。
駒札によると、
『この土蜘蛛灯籠は、もと七本松通一条にあって、源頼光を悩ました土蜘蛛が棲んでいたところといわれた。
明治年間に、この塚を発掘したところ、石仏や墓標の破片したものが出土し何ら参考となるものはなかった。
そのときの遺物がここにある「火袋」で当時、ある人が貰いうけ庭に飾っていたところ家運が傾き、土蜘蛛の祟りといわれたので、東向不動尊に奉納したという、
なお「土蜘蛛」とは我が国の先住穴居民族で背が低く、まるで土蜘蛛のようだったといわれる。』
              出典:【土蜘蛛灯籠由来(謡曲史跡保存会)の駒札】より
土蜘蛛には二つの謂われがあり古代には、大和朝廷に反逆する地方豪族を指し、大和朝廷に叛くものは総て「土蜘蛛」と云われ、さげすみ恐れられたのである。
そして時は過ぎ、「土蜘蛛」は妖怪変化へと様変わりするのである。
「土蜘蛛」というとそんな種類の蜘蛛が居そうであるが、土蜘蛛という蜘蛛は実在せず、妖怪としてその名が残るのである。

02大政所mid
もう一つは、祇園社の御旅所があった大善院(下京区大政所町)にあったという。
祇園社の御旅所の由来に蜘蛛が関わっている。
祇園社(八坂神社)からこの地まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、ここを御旅所と定めたという。
大善院は明治維新の廃仏毀釈により廃止され、烏丸通の拡幅で取り壊され残っていないのだが、小洞が建ち駒札のよると、
『ここはかって、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御のとき、三基の神輿のうち、大政所(素戔鳴尊:すさのおのみこと)神輿と八王子(八柱御子神:やはしらのみこかみ)神輿の二基が安置される場所であった。
残る少将井(櫛稲田姫命:くしいなだひめのみこと)神輿は烏丸竹屋町にあった少将井御旅所に渡御していたが、天正19年(1591)に豊臣秀吉により、これら二つの御旅所が四条寺町に移築・統合されて、現在の御旅所となった。
天延2年(974)に、この地に住んでいた秦助正(はたのすけまさ)が、夢の中で八坂大神の神託を受け、また自宅かの庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となったという。
天文5年(1536)に騒乱のため焼失したが、その後に町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めたという。
今でも御輿還御の時には御輿が立ち寄り、神職が拝礼する。』
                        出典:【大政所御旅所の駒札】より

03上品蓮台寺mid
そして上品蓮台寺にも「蜘蛛塚」がある。
上品蓮台寺は駒札によれば、
『蓮華金宝山九品三昧院と号する真言宗智山派の寺院である。
古くは聖徳太子の創建と伝えられ、当初は香隆寺と称したが、天徳4年(960)に宇多法皇の勅願により、寛空僧正が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれている。当時は、広大な寺域に伽藍が建ち並ぶ壮大なものであったが、応仁の兵火により焼失した。
文禄年間(1592~96)に性盛(しょうせい)上人が復興し、この付近の蓮台野一帯に十二の子院を建立したことから「十二坊」の名で知られるようになった。
本堂には、村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、その内部に、本尊の延命地蔵菩薩を祀っている。
寺宝として、下段に経文を、上段に経文の内容を説明した絵画を描いた貴重な経典として名高い絵因果経(国宝)をはじめ、文殊菩薩画像、六地蔵画像(ともに重要文化財)など、多くの文化財を所蔵している。
境内には、平安時代を代表する仏師・定朝(じょうちょう)の墓があり、春には枝垂桜が見事に咲き誇る。』
                         出典:【上品蓮台寺の駒札】より

04境内mid
上品蓮台寺の境内北側にある椋の木の下に「源頼光朝臣塚」の石碑があるあたが土蜘蛛を退治した所だとされる。
土蜘蛛退治の伝えは、
「平安時代の中頃、源頼光は原因不明の熱病に罹り苦しんでいたある夜、一人の僧が現われ頼光を縄で縛ろうとしたが、頼光はすぐさま名刀膝丸を抜き放ち僧を斬りつけると手応えがあり、僧は消え去ってしまう。
頼光は四天王の渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光に命じ、点々と落ちていた血を辿らせると、北野のうしろの大きな椋の木の下で途絶えていた。
その塚を掘り起こすと土蜘蛛が這い出してきたので、四人がかりで退治をすると、頼光の熱病はたちまち癒えたという。」
椋の木の下にある「源頼光朝臣塚」の駒札には、
『源頼光は平安中期の武将で、謡曲「土蜘蛛」には、その頼光が原因不明の熱病で臥しているところへ、化身した土蜘蛛ノ精があらわれ襲ってきたので、頼光は銘刀膝丸(ひざまる)で斬りつけた。
血のあとをたどって、家来の渡辺綱ら四天王が追っていくと「北野のうしろ」に大きな塚があって、大きな山蜘蛛があらわれ、これを退治したことが、述べられているが、その塚が、ここにあったといわれ、一名「蜘蛛塚」ともいう。
北野とは、この辺一帯の禁野の一つで、ちょうど、ここが北野のうしろに当る。
もと千本鞍馬口西入にあったのを、昭和の初め、ここに移した。』
                        出典:【源頼光朝臣塚の駒札】より

05大覚寺mid
源氏にとって大切なものとして、清和源氏の武士団を形成した源満仲が伯耆国の鍛冶安綱に鍛えさせた二振の太刀がある。
一振は、試し斬りで髭まで斬り落としたことで「髭切」と名付けられ、二振目は、首を斬ったところ膝まで斬り落としたことから「膝丸」と名付けられたという。
現在、「髭切」は北野天満宮に、「膝丸」は大覚寺の所蔵となっている。
「髭切」の太刀は、源満仲から3代目の源頼光に引き継がれ、頼光の四天王の一人・渡辺綱が、一条戻り橋で鬼の腕を斬ったことから「鬼切丸」と呼ばれるようになり、「膝丸」は、3代目の源頼光に渡ると、頼光が土蜘蛛を退治したことから「蜘蛛切」と呼ばれるようになるのである。
二振の太刀については

北野天満宮(土蜘蛛の灯籠:京都市上京区馬喰町)
京都駅から、
▼「B2」乗り場から50系統で『北野天満宮前』下車(所要37分)
「北野天満宮前」からすぐ
大政所御旅所跡(京都市下京区大政所町)
京都駅から、
▼「A1」乗り場から5系統、または「D3」乗り場から26系統で『四条烏丸』下車(所要11分)
「四条烏丸」から、徒歩1分
上品蓮台寺(源頼光朝臣塚:京都市北区紫野十二坊町(千本通北大路下ル)33-1)
京都駅から、
▼「A3」乗り場から206系統で『千本鞍馬口』下車(所要31分)
「千本鞍馬口」から、徒歩5分