京都駅から9系統のバスで堀川通を北に「一条戻り橋・晴明神社前」をすぎ5分ほどで「天神公園前」に着く。
ここで降りると、かってここにあった悲田院の鎮守社とされる、水火天満宮が鎮座する。
祭神は菅原道真公である。
ここに道真の師である、延暦寺の法性坊尊意僧正が供養したとされる「登天石」がある。

01鳥居mid
菅原道真は平安時代前期に右大臣にまで上り詰めた人物だが、出る杭は打たれるの例えどおり、時の左大臣・藤原時平が醍醐天皇に道真を讒言したことから、大宰府に左遷され、そこで非業の死を遂げる。
道真の無念は怨霊となって都に戻り災いを引き起こすのである。その道真の御霊を鎮めるために、菅原道真を祭神とする天満宮が多く造られた。
水火天満宮もその一つで、醍醐天皇が水害や火災を鎮めるために、道真の師であった比叡山延暦寺の尊意僧正に命じ、延長元年(923)に、醍醐天皇より「水火の社天満自在天神宮」の号を賜り、尊意の邸宅があった西陣一条下り松に天満宮を創建したものである。
以来、長い歴史のなかで幾多の移転を繰り返し、昭和25年(1950)現在の地に鎮座し、今にいたっている。
境内には、「六玉稲荷」や「登天石」また、眼病に効くという「金龍水」や安産に効用があるという「玉子石」などがあり、地元では「水火の天神さん」として親しまれている。

02拝殿mid
駒札には、
『祭神は、平安時代の政治家であり、漢詩人・学者としても有名な菅原道真である。
由緒書・家系図には、「洛陽一条下り松の霊地に、雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に、延暦寺の尊意僧正に勅命ありし、日の本最初の天満宮の勧請の最初なり」とある。
都の水害・火災を鎮める為に、第60代醍醐天皇に命じられた、道真公の師でもあった延暦寺の尊意僧正(第13代天台座主法性坊尊意僧正)によって、延長元年(923)6月25日、「水火の社天満大神」という神号の勅許を醍醐天皇から賜り、水火社天神天満宮として、菅原道真公の神霊を勧請し建立された。
水火天満宮が「日本最初の天満宮」と号する所以は、右記のように「天皇の勅命にて神号を賜り、天満宮としたこと」及び「初めて道真公の神霊を勧請したこと」による。
文明4年(1472)9月10日、第104代後土御門天皇の行幸があり、例祭の日を10月10日(旧9月10日)と改めた。
その後、第二次世界大戦など幾多の変遷を経て、昭和25年(1950)、堀川通が重要幹線道路となる拡張工事の際、堀川通りを挟んだ西側の上天神町から現在の扇町に移転した。』
                         出典:【水火天満宮の駒札】より

03登天石mid
境内に道真の師である、延暦寺の法性坊尊意僧正が供養したとされる「登天石」がある。
登天石の駒札には、
『延喜3年(903)菅原道真大宰府の地にて59年の生涯を閉じた。
その死後、都では天変が相次ぎ人々は道真の怨霊のせいだと信じ込み、時の醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に、祈祷を依頼し、勅命を受けた尊意は早速に山を下り、宮中に急いだ。途中賀茂川まで来ると突如として、水位が増し町へと流れ込んだ。
尊意は騒がず数珠をひともみして川に向かって、祈りを捧げた。すると不思議なことに水位は下がり、真っ二つに分かれ水流の間に一つの石が現れ、その上に道真の霊が現れ、やがて雲の中に消えていった。
その石を供養し登天石と名付けた。』
                          出典:【登天石の説明板】より
水火という変わった名は、元の場所は鴨川から分かれた二俣川が流あり、しばしば水害に見舞われていたので、水難を封じるために社を建て、雷神である道真公を祀ったことから、水と火を司る神として、水火と名付けられたという。
また登天石は、隕石だったという説もあり、いかにも道真神話と結びついた話しではある。

水火天満宮(京都市上京区堀川通上御霊前アガル扇町22-10)
京都駅から、
▼「B1」乗り場から9系統で『天神公園前』下車(所要29分)
「天神公園前」から、堀川通を東に渡りすぐ