この世とあの世を行き来した小野篁は、平安時代初めの公家、文人である。

01小野篁mid
従三位に律しられた身分であり、このような人物が、この世とあの世を何故行き来出来たのかという疑問が湧くのだが・・・
小野篁は遣隋使で中国に渡った小野妹子の子孫であり、その才能は秀でていたと言い、政務や漢詩・和歌など、そして特に「書」は並ぶ者は無かったという。
嵯峨天皇の御代に、内裏の門に「無善悪」との落書きの意味を篁が、悪はさがとも読み「嵯峨天王は無くていい」と解釈したことから、それを書いた犯人と疑われ、花園天皇から「子子子子子子子子子子子子」と書かれた文字を読んでみよと云われ、篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解き、その才能を認められ疑いが晴れたという。
小野篁は母親孝行で知られ冥界におもむいたのは、母親が地獄で苦しんではいないかを見定める為だったといい、その時に閻魔大王に認められ、閻魔庁で大王を補佐する夜々を過ごすことになるのだが、実際は遣唐使に任命されるも、理不尽に講義し船への乗船を拒否し、「西道謡」に恨み節の漢詩を作るのだが、これは嵯峨上皇の逆鱗にふれ承和5年(838)隠岐の島に流されるが、2年後に再び京の都に戻っている。
その後、要職を歴任し仁寿2年(852)51才で薨去する。

02冥界の井戸mid
小野篁が毎夜々々冥界に通ったという井戸(入口)が六道珍皇寺本堂の後ろの庭に存在する。
六道珍皇寺の井戸は、この世とあの世を結ぶ入口で、小野篁は母に会いたいがため、ここから地獄へと行き、そこで苦しむ母を救わんと、閻魔大王に談判したのをきっかけに、閻魔大王に気に入られ、閻魔大王の補佐をすることになったという。
源氏物語が愛欲にまみれたもので、それを書いた紫式部が地獄に落とされた時に、篁はこれを擁護し、紫式部の地獄行きをなくしたとか、また右大臣の藤原良相(よしすけ)が、地獄に落とされた時に、この世で恩義を受けた篁は閻魔大王に、良相のことを良く伝え生き返らせたとかという話がある。
小野篁は昼は宮中に仕える官吏の人であったが、夜になると六道珍皇寺の冥界に続く井戸から、高野槙の枝を掴んで井戸を下り、冥府で閻魔大王に仕えていたとも、また亡き母に会っていたとも云われている。

03閻魔堂mid
写境内には閻魔・ 篁堂があり、閻魔大王像と小野篁像が安置されている。
説明板に篁のことが書かれており、
『小野篁(802~852)は、参議小野岑守(みねもり)の子で、嵯峨天皇につかえた平安初期の政治家であり文人・歌人としても知られる。
文章生より東宮学士(皇太子の先生)などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬・弓術・剣術など武芸百般にも優れた文武両道の人物であった。
不羈(ふき)な性格で「野狂」ともいわれるように奇行も多く、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔王宮の役人であったという奇怪な伝説は、「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」等にも数多くみられることより、平安末期頃には篁が、独特の神通力を有しつねに現世と冥府の間を往来する閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことがうかがえる。
また、篁は承和5年(838)三十代半ばで遣唐副使に任じられながら、大使の藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)と争い、「西道謡」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官位官職を奪われたこともある。
しかし、承和7年(840)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を登り承和14年には従三位という高位に就いていることからも篁の尋常でない才能のほどがわかる。
篁が流刑地の隠岐へ流されるときに詠んだ歌は小倉百人一首にも採られ、知る人も多い。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船』
                        出典:【閻魔・篁堂の説明板】より

04嵯峨薬師寺mid
小野篁は、六道珍皇寺の井戸から冥界に出かけていたのだが、ではどの様にして「この世」に帰ってきたのであろうか。
それは、嵯峨嵐山の嵯峨釈迦堂にあった、招金山福正寺の井戸から戻ったという。
嵯峨嵐山の清凉寺本堂の西隣に「嵯峨薬師寺」がある。
嵯峨薬師寺は度々火災に会うが、鎌倉時代に北条時頼によって再興され、その後再び焼失するが、江戸初期に大覚寺の宮尊性親王により再建されたのが、現在の本堂である。
本堂の前には、「生の六道」小野篁公遺跡という石碑が建っているのだが、ここが、小野篁が冥土から戻る出口であった。
ある夜、六道珍皇寺の冥土通いの井戸から冥府に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者の身代わりとなり、焼かれている地蔵菩薩の姿を見て、その尊さに心を打たれ、その姿を刻した地蔵尊を黄泉帰りの井戸がある福正寺にお祀りをする。
冥土からこの世に戻ることを「生まれる」と考え、祀られた福生寺が冥府「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、篁の刻した地蔵菩薩像を「生六道地蔵菩薩」と言う。
福正寺は明治になって廃寺となり、明治13年(1880)に薬師寺に合併され、その時に、篁の「生六道地蔵菩薩」も薬師寺に移り、ここに祀られることとなる。
福正寺にあったと云う「生の六道」の空井戸は、寺ともども現在は残っていないのである。

ところが、平成23年(2011)に六道珍皇寺の境内の北東で、古くから伝えられていた「黄泉かえりの井戸」が発見されたのである。
小野篁の冥土からの出口は、長らく福生寺の「黄泉かえりの井戸」が定説になっていただけに、にわかには信じ難いものがあるのだが、これは小野篁さんに聞くほかないのではとおもうのだが・・・

六道珍皇寺(京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595)
京都駅から、
▼「D2」乗り場から88・206系統で『清水道』下車(所要16分)
「清水道」から、徒歩5分
嵯峨薬師寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46)
京都駅から、
▼「C6」乗り場から28系統で『嵯峨釈迦堂前』下車(所要49分)
「嵯峨釈迦堂前」から、徒歩5分