三条通神宮道から東に、粟田神社の鳥居が見えてくるのだが、それに目を奪われて、つい見逃してしまうのが、粟田神社の前三条通を挟んで向かい側にある「合槌稲荷神社」である。
この稲荷神社が、平安時代中期の刀匠・三条小鍛冶宗近が信仰していた稲荷の社であったと伝えられる。
駒札には、
『ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。
宗近は信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口三条坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。
稲荷明神の神助を得て名建劔小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」も、これをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて明神を祀ったのが、ここだったともいう。
なお宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったといわれる。』
出典:【合槌稲荷明神の駒札】より
また三条小鍛冶宗近にまつわる古跡とされるのが、東山粟田口の仏光寺にある。
仏光寺は仏光寺通の由来となった「本山 仏光寺」が下京区高倉通仏光寺下ルにあるのだが、こちらは「仏光寺 本廟」と呼ばれている。
ここは親鸞聖人の御遺骨を納めた本廟があり、江戸時代の元禄年間(1688~1703)に、「本山 仏光寺」から廟堂を移し、別院としたのが始まりとされている。
駒札には、
『親鸞聖人の御真骨をご安置するお堂で、御真骨は足利尊氏寄進の舎利容器に納められ地下に埋葬されている。
願い出により、一般門末の分骨も堂内地価に納めている。』
出典:【御廟(おたまや)の駒札】より
仏光寺は真宗仏光寺派の本山で、一時は本願寺を凌ぐ勢いがあったのだが、応仁の乱により堂塔伽藍が灰燼に帰し、その頃、本願寺中興の祖蓮如が本願寺を急速に建て直し、ついに文明13年(1481)に仏光寺の第14世となるべき経豪が、蓮如上人に帰依をし、48坊のうち42坊の末寺と共に、本願寺へと鞍替えをしてしまうのである。
これを契機に仏光寺の寺勢は急速に衰えることになるのである。
仏光寺本廟のなかには「三条小鍛冶宗近之古跡」の石碑が建つ。
三条宗近が、刀剣を鋳造するときに用いた井戸水が仏光寺にあったと云われ、ここにその石碑が建っている。
駒札によれば、
『宗近は平安中期の刀匠で姓は橘、信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住したので三条小鍛冶と称した。
名刀子狐丸をはじめ幾多の刀剣を造ったが、現存するものとして三日月宗近などがある。祇園祭の長刀鉾の鉾頭の長刀は、宗近が娘の疫痢治癒を感謝して鍛造し祇園社に奉納したものといわれ、特に有名である。
拾遺都名所図会によると、佛光寺本廟境内に刀剣を鋳るときに用いた井水があったといわれる。(都名所図会では知恩院山門の傍とある)
なお、粟田口鍛冶町にある粟田神社境内に鍛冶社がり、また神狐の合槌によって名刀を鍛えたと伝えられる合槌稲荷社が粟田口中ノ町にある。』
出典:【三条小鍛冶の古跡の駒札】より
宗近が朝廷から刀を鍛えよとの命に、納得のいくものが出来ず迷っているときに、氏神の稲荷神社の狐が童子に化けて相方を務め、無事奉納したものが「小狐丸」という名刀である。
小鍛冶宗近の刀は、人を斬ることではなく、刀のもつ美しさを際立たせるもので、決して人を斬るだけという妖刀ではなかったのである。
小狐丸は実在した刀で、後に九條家の秘蔵となったが、現在はそのゆくえは要として知れず、幻の名刀と言われている。
また場所は全く違うのだが、八幡にある石清水八幡宮の表参道・七曲りが見える下にあるのが「相槌神社」
神社の後ろに見えるのが、石清水八幡宮への表参道。山道を30分ほど歩くと八幡宮である。
表参道の七曲り付近にあり「相槌稲荷」と称した、八幡宮の末社であったのだが、元禄9年(1969)に、後藤庄三郎なる人物が、この地に移したとされる。
鳥居の扁額には「三條小鍛冶 相槌神社」とあり、相槌とは、刀を打つ時に師が槌を打つのに合わせ、弟子が大槌を打つことを言う。
三條小鍛冶とあるのだが、宗近とどんな関係がある神社かは分からないのだが、この神社も刀鍛冶に所縁のある神社らしいことが窺える。
神社の横には、刀を打つ時に使ったという、山ノ井戸と呼ばれる井戸が残っている。
合槌稲荷明神(京都市東山区粟田口中ノ町200)
京都駅から、
▼「A1」乗り場から5系統で『神宮道』下車(所要27分)
「神宮道」から、徒歩2分
仏光寺本廟(京都市東山区粟田口鍛冶町14)
京都駅から、
▼「A1」乗り場から5系統で『神宮道』下車(所要27分)
「神宮道」から、徒歩5分
相槌神社(京都府八幡市八幡平谷10)
京都駅から、
▼近鉄電車京都線で『近鉄丹波橋』乗換(所要9~11分)、京阪電車本線で『石清水八幡宮』下車(所要12分)
「石清水八幡宮」から、徒歩8分
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