京都駅から9系統のバスに乗り「堀川寺之内」で折り、寺之内通を東に一筋目を南に、徒歩3分の所に「法恩寺」がある。
尭天山佛牙院鳴虎報恩寺といい、室町時代中期までは法音寺という八宗兼学の寺院として、一条高倉付近(現在の御所御苑内、後に有栖川宮高松殿邸となる)に在ったが、後柏原天皇の勅旨を以て、浄土宗寺院となり現在に至る。
この時、寺号を報恩寺と改め勅額を賜るが、享保の大火で類焼し今は存在しない。
本尊は鎌倉時代の名匠、安阿弥快慶の阿弥陀三尊像である。
出典:【報恩寺略縁起】より
駒札には、
『寺伝では室町時代、一条高倉に開創したとあり、法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺であった。
文亀元年(1501)慶譽(けいよ)が再興し、浄土宗報恩寺と改め、天正13年(1585)秀吉によって現在の地に移された。
豊臣秀吉の所望により、寺宝の猛虎の絵を聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎の鳴き声が聞こえ、秀吉は一晩中安眠できず、すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名となった。
この絵は寅年の正月三が日に限り公開される。なお、複製画は常時公開されている(要予約)。
客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌とその父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。
観世流家元歴代や志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺でもある。
重要文化財の梵鐘は平安時代の作で、「勿撞の鐘」といわれる。
仲の悪い丁稚と織子がお十夜の晩にいくつ鐘が鳴るかで賭けを行い、賭けに負けた織子が口惜しさのあまり死に到ったという話があり、以後、除夜の鐘以外は撞かなくなったということである。
門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり、今は埋められた小川の名残を止めている。』
出典:【報恩寺の駒札】より
寺の前に「鳴虎報恩寺」との石柱が建つが、鳴虎とは文亀元年(1501)に、後柏原天皇より下賜されたもので、宗代~明代の中国画家により描かれたもので、虎が谷川で水を飲んでおり、その背後には松が、そこに二羽のカササギが止まっているという掛け軸である。
毛が一本一本描かれており浮出してみえ、また右と左と見る角度により、その姿も違って見えるらしい。
実際に見たことがないので、らしいとしか言えないが、寅年の正月三が日に限り公開されるという。
鳴虎の由縁は、豊臣秀吉がこの掛け軸を見て、聚楽第に持ち帰って床に掛けて楽しんでいたのだが、夜になると鳴動しどうしても眠れずに「これは鳴虎じゃ、早く寺に返せ」と、早々に寺に返された。寺に納まると鳴動はぴたりと止み、爾来世に鳴虎と呼ばれるようになり、寺名も鳴虎報恩寺と云われるようになった。
参照:【報恩寺略縁起】より
また境内には、撞かずの鐘という平安時代に鋳造された梵鐘がある。
『この鐘には撞くなの鐘・或は撞かずの鐘という悲しい伝説がある。
昔からこの附近一帯の織屋では朝夕に鳴る報恩寺の鐘の音が一日の仕事の初めと終りの合図であった。或る織屋に仲の悪い丁稚と織女がいたが報恩寺の夕の鐘が幾つ鳴るかについてかけをした。
丁稚は八つといい、織女は九つと言い争った。悪賢い丁稚は寺男に頼みこんで今夕だけは八つで止めてほしい願いを約束させた。何も知らない人のよい寺男は、簡単に引受けてしまったのである。
さて夕になり鐘は鳴りはじめた。丁稚と織女は一つ二つと数えはじめたがどうしたことか鐘は八つで終わってしまった。
百八煩悩を除滅することを願って撞くので百八が基準であり十二分の一の九つが正しいのである。十二分の一、六分の一、四分の一、二分の一等に分けて撞くこともある。
かけに負け織女は惜しさ悲しさのあまり、鐘楼にて首をつり自殺するに及び、その怨霊のたたりが鐘を撞くと不吉な事が生ずるので厚く供養して菩提を弔い、朝夕に鐘を撞くのを止め、除夜と寺の大法要にのみ撞くようになったというのである。除夜に参詣の皆様には一つづつ鐘を撞くて戴いている近年である。』
出典:【報恩寺梵鐘の説明書】より
法恩寺(京都市上京区小川通寺之内下ル射場町579)
京都駅から、
▼「B1」乗り場から9系統で『堀川寺之内』下車(所要28分)
「堀川寺之内」から、徒歩3分
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