豊臣秀吉が京の町を囲むようにして造った「御土居」により、洛中・洛外の区分が出来たのであるが、それにともなって御土居の廻りには7つの出入口が設けられた。
これを「京の七口」といい、それらは主要な街道への出入口でもあった。
だが「京の七口」というものの実際の出入口は9ケ所あったようである。
京の七口とは、
鞍馬口:鞍馬に続く鞍馬街道で、御土居の出入口は出雲路橋の西にあった。
大原口:八瀬・大原をぬけて若狭へと続く若狭街道で、御土居の出入口が河原町今出川交差点の西にあった。大原口道標は一つ西の寺町今出川の交差点に立つ。
荒神口:北白川から志賀峠を越えて、琵琶湖・近江へとつながる山中越で、御土居の出入口が荒神口の地名が残る西側にあった。
粟田口:東海道・中山道で、御土居の出入り口は三条大橋の西岸であった。
伏見口:伏見へと続く伏見街道で、御土居の出入口が五条大橋西詰にあった。
竹田口:江戸時代に出来た、竹田を通り伏見港へと続く竹田街道で、御土居の出入口が東洞院通八条上るにあった。
鳥羽口:山崎・西宮をへて西に続く西国街道と、鳥羽をへて淀に続く鳥羽街道で、御土居の出入口が九条通千本東入るにあった。
丹波口:亀岡から丹波に続く山陰街道で、御土居の出入口が千本通七条上るにあった。
長坂口:京見峠を越え杉坂に至る長坂越で、周山・若狭へと続いていた。御土居の出入口が北区鷹峯旧土居町にあった。
参照:【Wikipedia 京の七口】より
三条神宮道から南に下がると、白川小学校西門のそばに「粟田口」の石碑が建っている。
石碑の駒札には、
『粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る地名である。
この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、粟田郷と呼ばれていた。
平安京ができると、東国との交通の要地あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京都七口の一つにも数えられた。
鎌倉・室町時代にはここを通って馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)など、運送業者が物資を運んだ。
江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を間近に控え、人や物資の往来で一層にぎわった。
またこの付近には、平安時代の末以降、刀鍛冶(刀を作る職人)たちが住居を構えていた。
中でも、童子に化けた狐に鍛冶の手伝い(相槌)をしてもらい名刀「小狐丸」を打ったという伝説が残る刀匠・三条小鍛冶宗近が有名である。
江戸時代の元和年間(1615~1624)には、瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地になった。
この右手にある門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。』
出典:【粟田口の駒札】より
粟田口(京都市東山区粟田口三条坊町16)
京都駅から、
▼「A1」乗り場から5系統で『神宮道』下車(所要27分)
「神宮道」から、徒歩1分
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