かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水の流るる」と吉井勇が詠んだ、祇園の白川。
白川は比叡山から如意ケ岳にかけて、その端を発し、東山から流れ出て北白川を東から西に流れ、銀閣寺の少し西、白川今出川で疎水を横切り、白川通に沿って南に流れてゆく。
京都市動物園の辺りで疎水に合流し、疎水を少し西に流れ、岡崎の慶流橋の少し西から、再び白川として南に流れ、知恩院の北門から西に流れを変え、京を代表する花街である祇園の中を流れ、鴨川に注ぎ込む川である。
白川というと、祇園を流れる川というイメージが強いのだが、白川はその姿を色々と変えながら京の町を流れる、短い川なのである。
白川が祇園を流れる通りが白川南通で、そこに祇園をこよなく愛した、大正・昭和の歌人である吉井勇の「かにかくに」の歌碑が建っている。

mid01巽橋
吉井勇は明治19年(1886)に東京で生まれた歌人で、祇園をこよなく愛し、この歌碑が建っている辺りにあった茶屋「大友」でよく遊んだといわれる。
吉井勇が古希を迎えた、昭和30年(1955)に「かにかくに・・・」の石碑が有志により建てられ、毎年、祇園甲部の芸舞妓によって、この歌碑に白菊を手向けて勇を偲ぶ『かにかくに祭』が行われている。

02かにかくにの碑mid
吉井勇は、昭和35年(1960)に亡くなるのだが、祇園の馴染みの芸妓が「なんで菊の花になっておしまいやしたんえ」と嘆いたという。
駒札によれば、
『かにかくに 祇園はこひし 寐(ぬ)るときも 枕のしたを 水のながるる
この歌は,祇園をこよなく愛した歌人として知られる吉井勇(1886~1960)が明治43年(1910)に詠んだ一首で、彼の歌集「酒ほがひ」に収められている。
当時は白川の両岸に茶屋が建ち並び、建物の奥の一間は川の上に少々突き出ており、「枕のしたを 水のながるる」はその情景を詠んでいる。
しかし、第二次世界大戦下の昭和20年(1945)3月、空爆の疎開対策に白川北側の家々は強制撤去され、歌碑が建っているこの地にあった茶屋「大友(だいとも)」も犠牲になった。
大友は当時の文人、画人たちと幅広く交流のあった磯田多佳の茶屋である。
昭和30年11月8日、友人たちにより吉井勇の古稀(七十歳)の祝いとして、ここに歌碑が建立された。
発起人には、四世井上八千代、大谷竹次郎、大佛(おさらぎ)次郎、久保田万太郎、里見敦(とん)、志賀直哉、新村 出(いずる)、杉浦治郎右衛門、高橋誠一郎、髙山義三、谷崎潤一郎、堂本印象、中島勝蔵、西山翠嶂(すいしょう)、湯川秀樹、和田三造などそうそうたるメンバーが顔をつらねた。
以来、毎年十一月八日には吉井勇を偲んで、「かにかくに祭」が祇園甲部の行事として行なわれている。』
                        出典:【かにかくに碑の駒札】より

03宝青院mid
京阪電車「石清水八幡宮」の駅から京阪バス樟葉行きのバスに乗り、「大芝・松花堂前」で降り(乗車:10分)、高野街道を2分ほど歩くと、もみじ寺と呼ばれる「宝青院」がある。
ここは、吉井勇が昭和20年10月から23年8月の63才までを過ごした所である。
もみじ寺と呼ばれるように、境内は紅葉の紅と、庭の苔の青との対比が素晴らしく、秋の季節には、八幡での隠れ家的な紅葉のスポットとなっている。
門前に、歌人・吉井勇が住まいした所を示す「歌人吉井勇先生寓居之地」と、もう一つは「小野篁公作 十王像閻魔堂」の石碑が建っつている。
八幡と吉井勇については、

かにかくに碑(京都市東山区元吉町白川南町)
京都駅から、
▼「D2」乗り場から86・206系統で『祇園』下車(所要20分)
「祇園」から、西に徒歩8分
宝青院(京都府八幡市月夜田30)
京都駅から、
▼京阪電車本線で『石清水八幡宮』下車(所要20分)、京阪バス樟葉行きで『大芝・松花堂前』下車(所要10分)
「大芝・松花堂前」から、高野街道を南徒歩2分