京都駅から城南宮に向かうには、近鉄電車か市営地下鉄烏丸線に乗り「竹田」で降りて、6番出口から南西に20分歩くか、竹田駅西口から「城南宮東口」を通る、南2号系統の市バスに乗るか(降りて徒歩3分)、また京都駅から市バスのC4乗り場から19系統に乗り「城南宮前」で降りるかである。

01鳥居mid
城南宮は平安京が出来た時に都の鎮守として創建され、城(平安京)の南にあるということで、城南宮という名が付いた。
平安遷都の時に出来たのだから、白河天皇が鳥羽離宮を造った時には既に建立されていたのであり、鳥羽離宮のなかでは一番古い建造物である。
鳥羽離宮が造営されてからは天皇や上皇が行幸し、益々繁栄したのである。
京都御所の裏鬼門を守る神であり、方除け、厄除けの神として信仰され、境内の南には室町・桃山の趣を作風に、中根金作が作庭した昭和を代表する庭園「楽水苑」があり、毎年、4月29日と11月3日には曲水の宴が行われている。

02本殿mid
城南宮の駒札には、
『平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。
平安時代の末、この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬や競馬(くらべうま)が行われた。
また、離宮は方違(かたたが)えの宿所や熊野詣での精進所となり、方除の信仰が高まった。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、承久の乱が起きたことは名高い。
江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称され大いに賑う。
皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の祭に行幸されて吹散(ふきちり)を賜り、慶応4年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。
日・月・星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで広大な方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。
神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。』
                            出典:【城南宮の駒札】より

03拝殿mid
城南宮もまた鳥羽伏見の戦場となった場所でもある。
『この付近は、鳥羽伏見の戦のはじまった所である。
鳥羽伏見の戦は、明治維新を決定させた戊辰戦争の発端となった戦でもある。
慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられると、前将軍徳川慶喜は、一たん大阪城に退いたが、新政府における薩摩藩の行為に憤激した旧幕兵および会津、桑名両藩兵は、翌年1月2日兵を大阪から京都へ進めた。
これにたいし朝廷では薩・長・土の諸藩兵を鳥羽および伏見に出し、鳥羽ではこの付近、伏見では御香宮の付近に陣をかまえた。
こうして1月3日の夕刻この付近にまず砲火が開かれ、つづいて伏見において両軍が衝突し、激戦となった。
夜半にいたって、旧幕府軍はついに敗退し、その後激戦が続いたが、5日淀城を収め、6日八幡を抜き、山崎にあった会津藩兵を壊滅せしめることによって、新政府軍の勝利は決定的となった。』
                          出典:【鳥羽伏見の戦跡】より

04石鳥居mid
曲水の宴は平安時代宮中で催された歌会を再現したもので、楽粋苑の小川の傍らに7名(男性5名・女性2名)の歌人(詠み手)が座に着くと、朱塗りの盃にお神酒を注ぎ羽觴(うしょう:鴛鴦(おしどり)を象(かたど)った盃台)に載せ、川上から流し始める。
歌人は歌題にちなんだ歌を詠み短冊にしたためると、流れてきた羽觴を取りお神酒を飲み全員が飲み終えると、神職により朗詠され神前に奉納されるという催しである。

城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町7)
京都駅から
▼近鉄京都線(所要6~9分)、または京都市営地下鉄烏丸線(所要7分)で『竹田』下車
「竹田」から、西に徒歩20分
▼「C4」乗り場から19系統で『城南宮』下車(所要28分)
「城南宮」から、北に徒歩3分