烏丸通六角東入ルにあるのが、「紫雲山頂法寺」、通称「六角堂」という。
その六角堂本堂の後方に、華道の家元「池坊」がある。

01山門mid
西国三十三所第十八番札所で、洛陽七観音の一つである。
本堂が六角になっていることから六角堂と呼ばれる。本尊は金銅如意輪観音像を祀る。
現在の本堂は明治10年(1877)の再建になるものである。
本堂の前には、京の中心だったことを示す「へそ石」があり、また華道池坊流の家元としてもよく知られている。
六角堂の駒札によると、
『紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。
開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国33箇所観音霊場(現18番の札所)となったと伝えられる。建仁元年(1201)、親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。
本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍(へそ)石といい、古来、京都の中心に当たるとされてきた。
また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。』
                           出典:【六角堂の駒札】より

02本堂mid
華道、池坊はその昔、聖徳太子が亡くなった後に、隋から帰朝した小野妹子が、太子が沐浴したという池の畔に一坊を営んで、本尊如意輪観音に仕えていたので、世人は妹子を池の坊と呼び、妹子は太子から伝えられた華道を世人に授けたので、華道池の坊が起こったという。
代々、池の坊の僧が、本尊の如意輪観音に花を供えていたが、花の生け方に独自の工夫を凝らしていた。室町時代の文明年間(1469~1486)に、池坊12世の専慶が立花(たてばな)の名手として知られ、天文年間(1532~1555)には、池坊13世専応が立花の技術を理論として確立し、「池坊専応口伝」として代々受け継がれている。

03池坊mid 04口伝mid
六角堂の後方には、いけ花発祥の地モニュメントなるものが建っている。
いけ花発祥の地モニュメントの背景となっている文書は, 『池坊専応口伝』の冒頭の部分が刻まれている。
それによると、
『十六世紀の中頃、 池坊家の祖先, 池坊専応がその弟子に授けた花伝書で、 「瓶に美しい花を挿すこと」と、 池坊が伝える「よろしき面影をもととする」いけばなの違いを説いています。
川端康成氏はノーベル賞を受賞した時、 「美しい日本の私」と題した記念講演の中で、 日本美術の特質と伝統について述べ、 この花伝書を引用して、 いけばなが小さい瓶上に大きい自然を象徴するものであること、 「野山水辺をのづからなる姿」を花の心として、 破(わ)れた器、 枯れた枝にも“花”があり、 そこに花による悟の種がある――と解説され、 各方面から注目されました。
池坊ではこの花伝書を『大巻(おおまき)伝』といい、いけばなの根本を示す花伝書として代々継承して、 今も相伝を続けています。』
                     出典:【『池坊専応口伝』について】より

5沐浴mid
本堂背後の人口池に建つのが、太子堂。平面六角形、朱塗りの小堂で、聖徳太子2歳像を安置する。この地の池で聖徳太子が沐浴をしてといい、池の坊の由来ともなった池の跡である。
聖徳太子沐浴の古跡によると、
『用明天皇の2年(587)、聖徳太子は四天王寺を建てるための用材をたずねて、ここ、山城国愛宕(おたぎ)郡の杣(そま)に入った。
夕方御持仏を多良の木に懸け、泉で沐浴をされた。浴後枝にかけた持仏が木から離れず、光をはなって「我は汝の本尊となって七世を経たが、ここは衆生に利益を与えるにふさわしい地であるから御堂を建ててほしい」というお告げがあり、この地に六角堂が建立されたと伝える古跡である。』
                        出典:【聖徳太子沐浴の古跡】より

六角堂(頂法寺:京都市中京区六角通東洞院西入堂前町248)
京都駅から
▼京都市営地下鉄・烏丸線で『烏丸御池』下車(所要5分)
「烏丸御池」5蟠出口から、徒歩5分