鴨川と高瀬川(木屋町通)に挟まれた、三条通一筋南から四条通までの小さな路地が先斗町である。
はんなりと華やいだ風情があり、江戸時代からの花街といわれ全国的にもよく知られている。
特に、富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も・・・と歌われた「お座敷小唄」はお座敷ソングの定番となっている。
もともと、この地は鴨川の中洲であったものを埋め立てて、三条通の南一筋目から四条までの600mの間に町家ができ、正徳2年(1712)に茶屋、旅籠などで茶立ての女子を置くことが許されてから、京の花街として栄え現在に至っている。
先斗町の名は、町家の総てが川の西側に建ち、先にばかり集まったことで先斗町と呼ばれたとも、ポルトガル語のPONT(先、岬)の発音からとも言われているが、先斗町とはいかにも花街らしい響きを持った言葉で、上手く名付けたものだと感心するのである。
先斗町歌舞練場で行われる、春の「鴨川をどり」は、明治5年(1872)に開かれた第1回京都博覧会の催しとして演じられたのが始まりである。
秋には「水明会」が演じられる。
舞踊は尾上流で、紋章は舞い飛ぶ千鳥である。
四条通の入口に掛る駒札によれば、
『この地はもと鴨川の州であったが寛文10年(1670)に護岸工事の為埋め立て石垣を築き町家が出来て、これを新河原町通りといった。
その後三条一筋南から、四条まで、即ち南北600m、東西50mにわたる地域に人家が建ちならび俗に先斗町と呼ぶようになった。
正徳2年(1712)に茶屋、旅籠屋両株と茶立の女子を置くことを許され爾来花柳の街として繁昌、現在に至っている。
先斗町の呼名は、ここの人家がすべて川原の西側にたち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたともいい、葡萄牙(ぽるとがる)語(PONT)英語の(POINT)の発音によったともいわれる。
京の年中行事「鴨川をどり」は」明治5年に創始、今日迄京の春秋をあでやかに色どっている。』
出典:【京名所 先斗町の駒札】より
三条大橋から南を眺めると、五花街の一つである先斗町の歌舞練場が見える。
昭和2年(1927)に、大林組の木村特三郎氏の設計で、地上4階、地下1階の鉄筋コンクリート造として竣工した。
その屋根には、中国の蘭陵王の舞楽面を形どった鬼瓦が据えられている。
鴨川をどりは、明治5年(1872)に初演をされていて、今回(2007年)で170回目を向かえ、京の花街では最も多い回数で「芸の先斗町」をよく表している。
蘭陵王の舞楽面の由来だが、蘭陵王は名を高長恭(こうちょうきょう)と云い、中国南北朝時代(439~589年)の北斉の皇族で武将である。
北斉の天保8年(557)に出仕し、乾明元年(560)に徐州の蘭陵王に封じられ、北周との戦いに戦果をあげ将軍に正真をする。
しかし北斉五代行程の後主高緯から、その名声と武勲を妬まれ疎んじられるようになり、武平4年(573)、皇帝後主より毒薬を賜り自殺をするのである。
享年33才の若さであった。そして、その死とともに北斉も承光元年(577)に滅び去るのである。
舞楽面(ぶがくめん)とは、雅楽の一種で楽曲を伴奏して舞う舞楽に用いる面のことを云い、蘭陵王の舞楽面とは雅楽の曲目の蘭陵王の舞に用いる仮面である。
この舞のときに仮面を用いるのは、洛陽が北周に攻められ高長恭が援軍を率いて城に到着するが、城内の兵士に疑われ門が開けられなかった為に、高長恭が兜を脱ぎ顔を見せると、その美貌から正体を悟り門が開かれたという史実を元にして伝説が生まれ、それは高長恭は勇猛果敢な武将であったが「音容兼美」と云われる程に、美声と美貌の持ち主であり、戦場では兵士が見とれ士気が上がらない為に、勇猛な仮面をかぶり戦いに臨んだのだとなっている。
蘭陵王の雅楽や芝居が映画や宝塚などで演じられるのは、勇猛な武将ににつかわない美声と美貌の持ち主で、その最期が主君に妬まれて賜死(臣下に対し自殺を命じる死刑の一種)するという悲劇性とを合わせ、高い人気の由縁であるといえる。
その仮面が先斗町歌舞練場の屋根に先斗町の繁栄を祈念し守り神として、蘭陵王の舞楽面を形どった鬼瓦が据えられているのである。
先斗町歌舞練場(京都市中京区先斗町通三条下ル法勝寺町)
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統または「A2」乗り場から17・205系統で『河原町三条』下車(所要20分)
「河原町三条」から、徒歩5分
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