快慶は運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師であるが、その制没年や出自などは不明で人物像は定かではないのだが、仏像には在銘のものがあり、明らかに快慶作という仏像が多く存在している。
現存する最も古い仏像は、ボストン美術館が所蔵する、旧興福寺の弥勒菩薩立像で、文治5年(1189)の作という。
快慶は、慶派の基礎を築いた康慶(こうけい:平安末期から鎌倉初期の仏師で慶派の礎を築いた、子に運慶・定覚、弟子に快慶・定慶などがいる。)の弟子である。
建久3年(1192)醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像を造像したときに「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」と銘記し始める。
また運慶とともに、重源(ちょうげん)により進められた東大寺再興の造像に関わることとなり、仏師としての力量だ大きく評価されることとなる。
重源との関係も深く熱心な阿弥陀信仰者であり、理知的、絵画的な作風は「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれ、阿弥陀如来像の典型として受け継がれている。
隋心院は、曼荼羅寺・隋心院門跡・小野御殿などと呼ばれる。
寛仁2年(1018)仁海僧正により創建されたもので、代々摂家から入山される古寺である。
応仁の兵火で堂宇の多くが焼失してしまい、現在の本堂は慶長4年(1599)の再建で、書院は徳川秀忠夫人の寄進になると言われる。
隋心院のある小野は小野小町の住んだ里として知られ、寺には小町の化粧井戸や文塚が残っている。
伏見の深草から、小町の住む山科の小野(伏見からその距離約5Km。伏見街道を通り、京都医療センターの横を通って、ひと山越して、山科に向かった道。大津街道とも)に出る山路は、深草少将が小野小町に恋焦がれ、、百日の夜通いつめたら、その思いを叶えてあげると小町に言われ、毎夜々々、雨の日も風の日も伏見から山科の小町のもとに通った路であり、これを深草少将の百夜(ももよ)通いという。
金剛薩埵像は造られた数は少ないが密教では重要な仏様である。
隋心院の金剛薩埵坐像(重文)は、像内の背の中央部に「巧匠法眼快慶」の朱書きがあり、快慶の作だと判っている。
高さは1mほどで、桧の割矧造り(わりはぎづくり)で、玉眼は入っていない。
切れ長の盛り上がった眼が「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれる快慶の作風を偲ばせている。
この仏像が造られたのは、隋心院が承久3年(1221)の承久の乱で堂塔伽藍総てが灰燼に帰しており、その後の造像である可能性が強く、快慶晩年の作ではないかと云われている。
醍醐山(笠取山)が山岳信仰の霊山となったことから、山上を上醍醐、山下を下醍醐と呼び、それらに絡む堂塔伽藍を纏めて醍醐寺と呼んでいるのであり、醍醐寺という寺院はどこにも存在はしないのである。
醍醐寺三宝院は、永久3年81115)勝覚の開山になる。
たびたび火災にあい、現在の堂宇は豊臣秀吉義演僧正に命じて再建したものである。
中門を入ると、玄関・葵ノ間・秋草ノ間・表書院・純浄観・庫裏・寝殿・護摩堂(本堂・弥勒堂)があり、各建物が廊下でつながっている。
純浄観の東に護摩堂(本堂)があり、本尊の弥勒菩薩坐像(重文)は、像内朱書により建久3年(1192)快慶の造像になる。
またもう一体、建仁3年(1203)快慶作の不動明王坐像が安置されている。
醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町22)
京都駅から
▼京都市営地下鉄・烏丸線で『烏丸御池』乗換(所要5分)、東西線で『醍醐』下車(所要22分)
「醍醐」から、徒歩10分
隋心院(京都市山科区小野御霊町35)
京都駅から
▼京都市営地下鉄・烏丸線で『烏丸御池』乗換(所要5分)、東西線で『小野』下車(所要19分)
「小野」から、徒歩5分
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