南禅寺から北に歩いて7分ほどの所にあるのが「永観堂」である。
正しくは「聖衆来迎山無量寿院禅林寺」という。
東山連峰の麓にあり、夏には楓の緑、秋には楓が紅く染まり、紅葉の合間に本堂、釈迦堂、祖師堂、開山堂が見え隠れする。
その紅葉の美しさ古今集に歌われていて、「奥山の 岩垣もみじ 散りぬべし 照る日の光見る時なくて」(藤原関雄・秋和歌282)と詠まれている。
「永観堂」の正式名称は「禅林寺」というのだが、なぜ永観堂と呼ばれるのかというと、第七世住持・永観律師(ようかんりっし:1033~1111)の存在に起因する。(寺名はえいかん、律師はようかんと読む)
永保2年(1082)2月15日未明に、永観が東大寺本堂で仏道の修行(行道)をしていると、永観を先導するかのように阿弥陀如来が一緒に行道を始めたのである。
これに驚いた永観が立ち止まると、阿弥陀如来は、左に振り返り「永観、遅し」と告げたという。
この時の阿弥陀如来を像にした、身丈77センチ、檜材木造の「阿弥陀如来立像」が阿弥陀堂に安置されており、首を左に向けた姿から「みかえり阿弥陀」と呼ばれるようになる。
永観律師は、東大寺を辞する時に、この阿弥陀立像を背負って、奈良から京都へと向かうのだが、東大寺の僧がこれを取り戻そうとしたのだが、阿弥陀仏は永観の背から離れなかったという。
そのことを駒札には、
『聖衆来迎山と号する浄土宗西山(せいざん)禅林寺派の総本山で、正しくは無量寿院禅林寺という。
中興の祖・永観律師にちなみ、広く「永観堂」と呼ばれている。
平安後期の1082年2月15日未明、念仏を唱えながら本堂を歩く修行をしていた永観の前に、本尊の阿弥陀如来が一緒に加わった。
夢ではないかと立ち止まる永観に、阿弥陀如来は後ろを振り返り「永観、遅し」と発したと伝えられる。
その姿を仏像にした「阿弥陀如来立像」(重要文化財)は、首を左に向けて微笑みを湛える珍しい逸品で「みかえり阿弥陀」として親しまれる。
鎌倉時代中期には浄土宗西山派開祖・證空(しょうくう)の弟子・浄音(じょうおん)が住持となり、浄土宗一派の本山の基礎を固めた。
その後、応仁の乱により堂宇が焼失したものの、明応6年(1497)後土御門天皇の命により再興され、以後逐次諸堂が再建され、現在の伽藍が整えられた。
国宝の「山越阿弥陀(やまごしあみだ)図」をはじめ「当麻曼荼羅図」など重要文化財の寺宝を多数所有する。
もみじの永観堂として知られ、秋には色鮮やかな紅葉が見られる。』
出典:【永観堂の駒札】より
永観堂といえば本堂にある室町時代の作といわれる「阿弥陀如来立像」(みかえり阿弥陀:重要文化財)が有名だが、鎌倉時代に描かれた「山越阿弥陀図」(国宝)も見逃せない。
平安耳朶末期に末法思想が広がり、この世の終わりに念仏を唱えると阿弥陀如来が死での旅を迎えに来てくれ極楽王城が出来るという「来迎」が流行った。
その来迎の様子を描いたのが「来迎図」であり、永観堂に伝わる来迎図は、山の向こうから阿弥陀様が現われ、衆生を極楽浄土へと導くというものである
山の間から阿弥陀如来が現われ、点前には雲に乗った「観音菩薩」と「勢至菩薩」が、あたかも山から降りてきたかのように脇侍として描かれ、その下には四天王と童が幡を掲げている。
阿弥陀如来の右掌には五色の糸跡があり、臨終に際してこの糸を持たせて、阿弥陀如来の庇護を願ったのではないかと云われている。
永観堂(京都市左京区永観堂町48 )
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統で『南禅寺永観堂道』下車(所要21~23分)
「南禅寺永観堂道」から、徒歩3分
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